5月号

連載エッセイ/喫茶店の書斎から 108 足立巻一先生の色紙
「どんな意味ですか?」とおっしゃる。
「書斎・輪」にご来訪のKさんが、飾ってある足立巻一先生の色紙を指してのこと。
足立巻一とは言うまでもなく、詩人・評伝作家として大きな仕事を成した神戸の人。わたしが生涯尊敬する人物だ。
横長の額に二枚の色紙を並べて飾っている。
鴨の赤い身を 含みながら
日本の詩は神名に始まる
と考えた 巻
渇くのだ 火酒のようにではなく
渕のように 巻
わたしも「渇くのだ」の方の意味はまったく解らない。
ただし「鴨の赤い身を」の方は出所が分っている。
播磨中央公園にある足立先生の文学碑がこれだ。書斎にはその拓本も飾ってある。
「日本の詩は 神の御名から はじまる」
さらに先生の詩集『雑歌』の中にも「神名」という詩がある。
湖畔の/〈鳥新〉という古風な宿で/鴨のスキヤキを食っていると/突然/男神と女神とが/白波立つ湖水を渡って来た。
それから―/男神と女神とは/尾花の枯れつくした野に分け入り/名を呼びあった。/唱和はかぎりなくつづき/神の名は風に乗る。
鴨の赤い身を含みながら/日本の詩は神名に始まる―/と考えた。
しかし「渇くのだ」の方は抽象的でわたしには見当がつかない。ご存じの方があればお教えください。
Kさんだが、お帰りになる時、足立先生の代表作『やちまた』上下をお貸しした。
すると後ほどメールで「あの色紙はここからでは?」と、「賀茂真淵」が出てくるページを示された。
「やちまた」は国学者本居宣長の長男、やはり国学者本居春庭が主人公。国学が底流にある評伝小説だ。何人もの国学者が登場するが、その中に「賀茂真淵」がある。これではないかとKさんはおっしゃるのだ。
なるほど、「カモ」があり、「フチ」がある。これを足立先生は暗示しておられるのか。二枚の色紙は関連しているのか。でも「渇く」「火酒」との関連が見えない。わたしが浅学だから思いつかないのだろうか。もう少し宿題としておこう。
ところでこの二枚の色紙だが、わたしが直接先生から戴いたものではない。実は前々号に取り上げた書家、村上翔雲師の遺品だったものをご遺族のご好意で頂戴したもの。
これには興味深い事情がある。
足立先生が書家の翔雲師に「書」を贈るはずはないであろう。ではなぜ翔雲師が所持されていたのか。その秘密。
その前に少し寄り道。
まだ足立先生がご存命中の1984年秋のことである。三宮サンパルで良心的な小さな出版社「編集工房ノア」を支援するチャリティー展が先生の肝いりで催されたことがあった。
そこに先生の色紙が出品されていた。だがわたしは買わなかった。先生にはまたいつか直接に書いてもらえるだろうと思ってしまったのである。
ところがその後、そんな機会はなく、亡くなってしまわれた。恥ずかしい話である。
話を戻す。なぜ翔雲師が足立先生の書を所持していたのか。
足立先生の死後、先生を偲ぶ会「夕暮れ忌」(命名は司馬遼太郎、井上靖の両氏)が二十五回も催されることになるのだが、その最終回に詩人の杉山平一氏が寄せられた言葉の中の一部。
《埋もれた文学者の書籍の数々を復刊させると共に、尊敬する先輩竹中郁没後、その遺著を出版するために、神戸周辺の文人画家のチャリティー展を開催して費用を生み出し》
ここにご自分の色紙も出品されていたのだろう。それに村上翔雲師が協力されたということ。わたしと違って精神性が高いのだ。
翔雲師は入手しても飾ることはしなかった。なので、わたしの手元に来た時にも今書かれたように美しかったのだ。封筒に入ったままで何十年飾られることがなかったのだ。「喫茶・輪」で飾られてやっと人目に触れたというわけである。
ところで翔雲師は、この詩の真意を解っておられたのだろうか。

(実寸タテ9.5㎝ × ヨコ16㎝)
六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会員。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)、随筆集『湯気の向こうから』(私家版)ほか。