5月号

神戸で始まって 神戸で終る 59
横尾忠則の肉体派宣言展 ~「事なかれ主義」に支配される悲劇~
今月始まる横尾忠則現代美術館の展覧会テーマは『横尾忠則肉体派宣言』です。絵画における「肉体」は、僕にとって最も重要なテーマです。だから企画の話を聞いて、大変楽しみにしていました。
そして早速、展覧会プランと展示作品のセレクションが送られてきました。選択された作品のほぼ全作が肉体を描いた絵ばかりで、僕は愕然としました。
「肉体派宣言」と言った以上、確かに肉体そのものが描かれていることには間違いないのですが、これでは、昔の小説の挿絵となんら変わりません。書かれた文章に忠実に写実的に描いた、なんの想像力もない、面白くもおかしくもない挿絵のような作品の選択に、学芸員は一体、肉体のなんたるかを理解しているのだろうか、そんなこともわからずにこの企画を立てたのか、ということに僕は呆れ返ってしまいました。
つまり頭で思考した「肉体」です。僕は常に口が酸っぱくなるほど、頭の思考を停止して、肉体で感知するように、長い間、言い続けてきたはずです。にも関わらず、僕の眼前に並べられた作品は、絵に描いたような観念そのものです。選択された作品はどれもが「肉体派宣言」を自らが裏切った作品ばかりです。これが現状の学芸員かと、僕は怒りを越えて悲しくなってしまいました。
「肉体」といえばそこに肉体が描かれたものという、全く子どもじみたというか、素人の域を出ないキュレーションに、僕は唖然とするしかなかったのです。
僕が常日頃から学芸員に伝えていることは、作品それ自体が肉体的存在であることの重要性で、今まで何度も語り続けてきたはずです。それが全く通じていなかったことに僕は悲しくなってしまったのです。
そこで僕は、プレゼンテーションされた作品一点一点にコメントする代わりに、「描かれた肉体」ではなく「肉体が描いた」作品を選択すべきであると、学芸員自らが理解できるよう促すようなヒントになる言葉で返答しました。それは学芸員自らが頭ではなく肉体で感じとるためのサジェッションだったのです。
かなりの長時間を経て、その解答が作品の選択によって返されてきました。やっと理解してくれたことに僕は胸を撫で下ろしました。
当の学芸員に限らず、多くの知識人の思考は、大半が知識と執着と情報という実に今日的なものの考え方が主流で、思考による不自由さに自縛されているように思います。人は常に自由でなければならないはずが、考えることで自由を見失ってしまっているのです。それが今日の思考パターンです。頭で考えないこと、肉体優という体験を見失った結果の悲劇です。
知識という枠の中での自由です。本来の自由は枠の外にあるものです。大半の知識人は枠の中という概念(コンセプト)と一方的な思考によって、本来の自由な発想を完全に見失っているのです。
しかも、そのことに気づいても、それほどショックは受けていないように思います。社会は、他者が何者だということには関心があるかもしれないが、自分が何者であるのかという哲学的理念に対しては実に希薄です。
どこか事なかれ主義で、その日がなんとか終わればいいという考えに支配された日常です。
何も自己をそこまで見極める必要などないという、事なかれ主義が、空気としてこの社会に蔓延してしまっているように思います。自分に与えられた全ての仕事は、自己の魂の向上のための修行であり機会であると考えている者が、如何に少人数であるか。そういうことへの自覚の欠如ではないでしょうか。
まあ、今回の「肉体派宣言」展は、学芸員の思考と肉体の間で揺れながら、かなり、説得力のある展覧会へと導いてくれたと思います。ある意味で、展覧会は学芸員の戦いのコラボレーションかもしれません。
そういう意味では、時間内ギリギリで自分の限界を越えようとする姿勢にも見えています。ベテランの学芸員が、これから冒険しようとして難解な課題を自らに与えて苦悶する姿勢は、時には感動的です。
そのような学芸員の苦悶を念頭において、この「肉体派宣言」の展覧会をご覧になっていただきたく希望しています。

肉体派宣言展ポスター(デザイン:横尾忠則)

横尾忠則《来迎図》1983年

横尾忠則《切断の図》2021年
美術家 横尾 忠則

撮影:横浪 修
1936年兵庫県生まれ。ニューヨーク近代美術館、パリのカルティエ財団現代美術館など世界各国で個展を開催。旭日小綬章、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞、東京都名誉都民顕彰、日本芸術院会員。著書に小説『ぶるうらんど』(泉鏡花文学賞)、『言葉を離れる』(講談社エッセイ賞)、小説『原郷の森』ほか多数。2023年文化功労者に選ばれる。
『横尾忠則の肉体派宣言展』が始まります!
2025年5月24日(土)~8月24日(日)
横尾忠則現代美術館