5月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~ (61)前編
小磯良平
ダイナミックな群像の対極に描いた緻密な薬用植物…
〝神戸が広げた〟洋画家の可能性
神戸が生んだ二人の才能
数々の肖像画や群像画を描き続けた日本を代表する洋画家、小磯良平(1903~1988年)は神戸で生まれ、神戸で亡くなった。ダイナミックな群像画や気品漂う裸婦像などが有名だが、一方で薬用の植物画を長年にわたり描き続けていたことをご存じだろうか?その筆致は精密で正確。人物画が放つ細やかな表情、壮大な構図で魅せた群像画などとは一線を画す〝絵画の持つ力〟の幅広さを、この薬用植物画のなかに小磯は込めた。彼が薬草植物を描くきっかけが生まれたのも、神戸だった。
小磯は1903年、神戸市神戸(現在の神戸市中央区中山手通)で、8人兄弟姉妹の次男として生まれた。父は貿易商社に勤めていた。小磯は地元の小学校から、兵庫県立第二神戸中学校(現在の県立兵庫高校)へと進学する。
神戸市兵庫区出身の詩人、竹中郁(1904~1982年)とは、同中学校時代の同級生で、クラスも同じ。学生時代から気が合い、生涯を通じての親友だった。
その竹中も小磯と同様、神戸で生まれ、生涯を過ごし、神戸(神戸中央市民病院)で亡くなっている。
同中学を卒業後、小磯は上京し、東京美術学校西洋画科(現在の東京芸術大学美術学部)へ進学。一方、竹中は中学を留年した後、地元・兵庫県の関西学院大学文学部へと進学する。
小磯が1927年、東京美術学校の卒業制作時に画いた「彼の休息」のモデルは親友の竹中だった。小磯は同美術学校を首席で卒業する。
同じ中学で学んだ後、片や画家、片や詩人としての道を歩んだ二人だが、ともに学生時代から文化・芸術に興味を持ち、それぞれ絵画、文学について教えあう、そして刺激を与えあうライバルでもあった。二人とも養子であることなど共通点は多く、よく似た境遇で同時代を送っていたという事実は、日本の絵画史、詩の創作の歴史を振り返ってみても興味深い。
それぞれ違う道へ進んだ二人だが、小磯はその後も、竹中をモデルに何作も絵画を発表している。
竹中も、また、詩の創作のなかに小磯について触れるなど、歩む道は違えど、生涯にわたり、互いを高めあう唯一無二の親友であったことが、創作活動のなかからも伺える。
〝神戸の画家〟、〝神戸の詩人〟であった小磯と竹中。二人が〝神戸のモダニズム文化〟に浸りながら育ったことが、それぞれの創作のなかに多大な影響を与えたといわれている。
薬用植物との〝出会い〟
なぜ小磯は薬用の植物画を描いていたのか。
そのきっかけも、また、神戸だった。
第二次世界大戦末期。米爆撃機B-29は日本全土に焼夷弾を投下し、火の海にしていくが、神戸の被害も、また甚大だった。
1945年6月5日の神戸空襲により、小磯は自宅とアトリエを焼失している。
それから数年を経た1949年、神戸市内に、小磯の新たな自宅とアトリエが建設された。
この場所は、大手製薬メーカー「武田薬品」の6代目武田長兵衛社長の自宅近くにあった。
実は、武田の紹介で、小磯はこの新しい自宅とアトリエを建てることになったのだ。
武田長兵衛社長は、戦前から小磯の絵画の収集家として知られ、小磯と親しく付き合っていた。
空襲で家を焼かれ、困窮している小磯の支援を名乗り出たのが武田だった。
その後、武田は、小磯の親子像の絵画などを武田薬品のビタミン剤などの広告のポスターに採用。また、顧客に配る武田薬品の企業カレンダーなどにも、小磯は原画を画いて提供している。
そんな縁で、武田薬品の機関誌「武田薬報」の表紙のイラスト画を小磯が担当することになった。
そのイラストが薬草植物だった。
1956年から1968年まで。約13年間にわたり、「武田薬報」に、毎号、数々の薬草植物のイラストを小磯は描き続けていた。
この表紙画を集めた「薬用植物画譜」が、武田薬品の創業190年の記念として刊行されている。
ヒガンバナ、ボタン…。
その描写は繊細で、実際に薬草の標本を目の前で見るかのよう。虫に食われた葉、無数に空いた葉の穴までが細かく描かれている
一昨年、NHK連続テレビ小説で放送された「らんまん」は植物分類学者、牧野富太郎をモデルに描かれたドラマだった。
ドラマのなかで俳優、神木隆之介演じる主人公、槙野万太郎が、植物に触れ合うぐらいまで顔を近づけ、真剣な眼差しで植物をスケッチする姿が描かれるシーンは印象的だった。
植物分類学者が植物と対峙する際のこの鬼気迫る姿を見ていて、こう想像した。
後世にまで残る資料として、正確に記録し伝えるために…。薬用植物を描く際、きっと、小磯も牧野と同じ思いで絵筆を取り、植物と対峙しながら描いていたに違いない…と。
描くべき対象を目の前にした、画家の命を削るような作業とは、こうだったのだ。
そう想起させた。
=続く。
(戸津井康之)