5月号

連載 Vol.13 六甲山の父|A.H.グルームの足跡
日本人として眠る
1918年1月9日、アーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)は71年におよぶ人生の幕を神戸の地で下ろした。「火葬にし日本人として骨は外国人墓地ではなく宮崎家の墓に埋葬するように」という遺言の通り、榊一対と高提灯だけの質素な葬儀を終えると春日野墓地で荼毘に付され、日本人の僧侶により「英智院具理日夢居士」という戒名を授けられて宮崎家の墓に埋葬された。火葬の際は体が大きすぎて、膝を曲げてやっと炉に入ったという。妻、直の実家である宮崎家は日蓮宗ゆえ弔いは法華の形式でおこなわれ、参列者は400ほどだったと伝わる。死亡届は遺言執行人のテバーソン(H.F.Teverson)により神戸総領事館に届けられ、ロンドンのファミリー・レコード・センターには同年5月24日に登記されている。
春日野にはグルームを発起人とし設立された外国人墓地もあった。人望の厚かったグルームを偲び多くの人々がお墓参りに訪ねるも、みな外国人墓地に行ってしまう。そこで日本人墓地にあるグルームの墓への案内図を掲げると、日本人として眠っていることを知った墓参者はみな感銘を受けたという。なお、墓は現在鵯越霊園にあり、先日綺麗に改修された。
そもそもグルームの日本贔屓は徹底していた。グルームと直は15人の子宝に恵まれ、当時の医療や衛生の状況もあってうち6人が夭折しているが、それでも息子6人、娘3人に囲まれて暮らした。その教育方針は日本的で、子どもたちに西洋の真似は許さず、ハイカラな髪形でおしゃれをすると笑いながら掴んで潰し、靴などはなかなか履かせてもらえなかったとか。特に女の子は外国人との結婚はおろか、外国語の勉強すら禁じられた。そんな教育環境だからか、三男末吉は16歳にして近代日本画の巨匠、竹内栖鳳に入門。やがて「翠濤」の雅号で彩管を振るいつつ、親しかった同門の後輩、橋本関雪らと神戸絵画研精画会を再興したり、神戸美術協会や兵庫県日本画家協会の創設に参加したりと、兵庫県の日本画壇の発展に貢献した。
さて、グルームが他界して1年ほど経ったある冬の日に、信じられないできごとが起こる。5人の見知らぬ男がグルーム宅を訪ねてきて、なんと、グルームが命を助けかわいがっていた野生のきつねの霊が、その1人に取り憑いているという。グルーム家の人たちはその霊を家に祀り、その後1933年に六甲山上に白鬚大明神として奉祀した*。これが現在の白鬚神社で、昨年道路整備に合わせて社殿を新しくしたが、その敷地には子どものいたずらで首が取れた地蔵像をグルームが修復・復元したグルーム地蔵も安置されている。また、末娘のりゅうと、その娘でグルームが亡くなって20日後に生まれた玲子は、六甲の開発に対する山の霊や池の霊の怒りを鎮めようと供養などを続けて、ようやく赦されたと、1963年頃に作家・陳舜臣氏に語っている。
グルーム一家がこれほど信心深いのは、殺生はいけないと諭してグルームにハンティングをやめさせた直の影響かもしれない。一生和服と丸髷で過ごし、金銭的危機の際は先祖からの財産まで投げ打って尽くした糟糠の妻を、グルームが涅槃で迎えたのは大正の最後の年だった。いまは夫婦水入らず、六甲山の空の上でおだやかに過ごしていることだろう。
(了)
*この逸話は絵本になっている(『グルームさんとしっぽの白いキツネ』 JDC出版)
※本連載の制作にあたり多大なる協力を賜った「グルーム孫の会」各位、ならびに丸井商會代表取締役の丸井茂嗣様に心より御礼申し上げます。

白鬚神社
イラスト/米田 明夫