5月号

近代建築の巨匠、フランク・ロイド・ライトを学ぶ|Chapter 12 林愛作 |平尾工務店
平尾工務店がお届けする「オーガニックハウス」の基本的な理念や意匠を編み出した世界的建築家、フランク・ロイド・ライトについて、キーワードごとに綴っていきます。
フランク・ロイド・ライトが日本で建築の仕事を手がけるようになった経緯は、帝国ホテルの支配人を務めた林愛作の存在抜きに語れません。
林は1873年に現在の群馬県太田市に生誕。奉公先の横浜で西洋文化や英語に触れ、19歳の頃に単身サンフランシスコへ渡り夜学に通いつつ貿易会社で働きます。すると支援者が現れて東海岸の名門校へ進学し、1900年から富裕層相手に東洋美術を商う山中商会のニューヨーク支店で勤務、重職に就き社交界でも知られる存在になりました。
その頃帝国ホテルでは近代化により日本人の利用が増加する一方、スイス人支配人は業績の割に報酬が高く、経営陣は外国人に対する応接や営業ができる邦人支配人を求めるように。そこで白羽の矢が立ったのが林でしたが、充実した毎日を送っていた彼は固辞し、主力を失うことになる山中商会も難色を示します。しかし会長の大倉喜八郎や前会長の渋沢栄一があの手この手で懇願・説得し、1909年、林はある条件のもと帝国ホテル支配人に就任しました。
その条件の一つが、本館建て替えの計画策定と実行の権限でした。そして林が設計者に指名したのが、浮世絵売買を通じて親しかったライトです。この背景には、銀行家で美術コレクターのフレデリック・グーキンの強い推薦もあったようです。
1913年、林は来日したライトに帝国ホテル新本館の設計を打診します。ちょうどスキャンダルによりアメリカでの仕事を失っていたライトは受諾し、1916年に正式に契約しました。ところが建設がはじまると予算は大きく超過し工期も大幅に遅れ、さらに旧本館で焼死者を出す火災が発生、林は責任を問われ新本館完成前に帝国ホテルを辞しました。
一方、林はライトに自邸の設計も依頼し、帝国ホテルよりも早く1918年頃に竣工しています。この林愛作邸は東京の駒沢公園に隣地に現存。現在は非公開ですが、世田谷区が保存活用に前向きなようです。

ライトが設計した林愛作の自邸(イメージ)

FRANK LLOYD WRIGHT
フランク・ロイド・ライト
1867年にアメリカで生まれたフランク・ロイド・ライトは、91歳で亡くなるまでの約70年間、精力的に数々の建築を手がけてきました。日本における彼の作品としては、帝国ホテルやヨドコウ迎賓館、自由学園明日館が有名です。彼が設計した住宅のすばらしさは、建築後100年経っても人が住み続けていることからわかります。
これは、彼が生涯をかけて唱え続けてきた「有機的建築」が、長年を経ても色褪せないことの証明でしょう。フランク・ロイド・ライトが提唱する「有機的建築」は、無機質になりがちな現代において、より人間的な豊かさを提供してくれる建築思想なのです。