2025年
7月号
(実寸タテ16㎝ × ヨコ4㎝)

連載エッセイ/喫茶店の書斎から 110 羽化登仙

カテゴリ:文化人

「喫茶・輪」で詩画展を開いたことがある。その時のことだ。
いつも通りにカウンター席に座り、文学談義などしながら時を過されていたのはわたしが畏敬した文学研究家の宮崎修二朗翁。
翁には店のメニューにはない水割りを提供するのが常だが、その日は特にいいご機嫌になられて遊び心が生まれたようだった。
翁は文学だけではなく様々な分野に通じておられて、その一つに「書」がある。
三月号に書いたように書家村上翔雲師とも親しかったが、ご自分も個性的な字を書いておられた。
翁のお遊びだが、
「墨と筆と紙を」と所望された。
驚いた。筆を持たれた翁は半紙を前にして、手前から向こうに向かって文字を書かれた。半紙の下から上にだ。文字も逆さまである。まるで曲芸だ。それがちゃんとした言葉で「書」になっていた。そんな遊びで見る人を驚かせた後も、思いつく言葉を吐き出すように次々と書いて遊んでおられた。そして、「これは恥をかいたものですから全部捨てて下さいね」と。
ところがわたしは、中の一枚が捨てるに惜しい書だったので額に入れて店に飾った。
 美女ぞろいの
 自画像展に
 酔ひ帰る
苦労 悲々 惨   修
九六・一一・三
 
一九九六年十一月三日だったことが分る。
その詩画展の出品者は女性が多かったのだ。美女かどうかは覚えていない。
さて次回にご来店の時だ。
その書額を目にした翁は、
「恥ずかしいから捨てて下さい」と即座におっしゃった。「その代わりにいいものを持ってきます」と約束された。
そうして持って来られたのが阿波野青畝の短冊だった。
「羽化登仙」と言う文字。青畝は俳句の人だが、この四文字。
意味は「羽が生えて空に登って行き、仙人の境地に」とわたしは解していた。
その短冊は、店を廃業した後の書斎兼応接室の「輪」に今も飾ってある。
このほど、ご来訪の「劇団神戸」代表、小倉啓子さんがこの短冊に目を留められた。
「なんと書かれているのですか?」と。
「羽化登仙です」とお答えした。すると小倉さん、こうおっしゃった。
「お酒を飲んでいい気分になって空に登ってゆくような字ですねえ」と。
言われてみればたしかに、軽く柔らかな文字である。いかにも空に漂うような。
そこでわたしはハッとした。
そうか、そうだったのか、と気づいたのだ。
あの筆を振るってのお遊びをしておられた時の宮崎翁は、その境地だったのではないか。
水割りを飲みながら、好きに筆を運ばせて遊んでおられた時は、正に「羽化登仙」の境地だったに違いない。
だから、「代わりにいいもの」と持って来て下さったのが「羽化登仙」の短冊。
翁のその心をわたしは今の今まで読めていなかったのだった。あれから三十年近くなって、やっと謎が解けたような。
宮崎翁、昇って行かれたあの空から「やっと気づいたか?」とニンマリしておられることだろう。
いや恐いお人だ。

ところで短冊の阿波野青畝(1899年~1992年)だが、高浜虚子に師事し、山口誓子、高野素十、水原秋櫻子とともに「ホトトギスの四S」と称された俳人。短冊は値打ち物なのだ。
西宮の甲子園に在住したことから「甲子園」と題した句集がある。
これまでわたしは詳しく読んだことがなかったが、これを機に繙いてみた。
浅学のわたしには難しい句もあるが、親しみやすいユーモアあふれる写生の句もある。
 姥の爪芋茎すいすいむけてゆく
 馬の鼻ぶるんと鳴らす暑さかな

あ、書き忘れていることがあった。
あの「美女ぞろいの」の書、実は今も捨てずに大切に保管している。
先生、お叱りになりますか?

(実寸タテ16㎝ × ヨコ4㎝)

六車明峰(むぐるま・めいほう)

一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会員。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。

今村欣史(いまむら・きんじ)

一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)、随筆集『湯気の向こうから』(私家版)ほか。

月刊 神戸っ子は当サイト内またはAmazonでお求めいただけます。

  • 感性で選ぶ。あなたにふさわしい5を。|Kobe BMW
  • フランク・ロイド・ライトの建築思想を現代の住まいに|ORGANIC HOUSE
〈2025年7月号〉
マキシン|帽子専門店[KOBECCO Selection]
共創によって 生み出される 価値 | ひょうご国×台湾-扉(目次)-
HYOGO×TDRI(台湾デザイン研究院) | ひょうご国×台湾
瓦と「家」とのつながりを再解釈 | 淡路瓦×TDRI | ひょうご国×台湾
伝統と革新が織り成す新しいバッグスタイル | 豊岡鞄×TDRI | ひょうご国×…
自然と文化を繋ぐ丹波焼の新しい息吹 | 丹波焼×TDRI | ひょうご国×台湾
レザーと再生素材の調和 | 神戸レザー×TDRI | ひょうご国×台湾
HYOGO×台湾実践大学 | ひょうご国×台湾
大阪アジアン映画祭特別企画 ③ スペシャル・インタビュー
平尾工務店|目次[PR]
BMW 駆けぬける歓び[PR]
最高の神戸ビーフ|ビフテキのカワムラ|扉 [PR]
6通のブルックリンからの手紙|大江千里|4通目|犬について
【スペシャルインタビュー】ディズニー映画の人気は普遍…〝ヒットの仕掛け人〟が語る…
神戸偉人伝外伝|扉
KOBECCOお店訪問|御影洋食 一平
美しきかな ひょうごの文化財 | 煌びやかに輝く、八角三層の建物 | 第七回 移…
神戸で始まって 神戸で終る 61
⊘ 物語が始まる ⊘THE STORY BEGINS – vol.56 女優十朱…
神戸御影メゾンデコール|オートクチュールインテリア[KOBECCO Select…
亀井堂総本店|瓦せんべい[KOBECCO Selection]
STUDIO KIICHI|革小物[KOBECCO Selection]
㊎柴田音吉洋服店|ハンドメイド ビスポークテーラー[KOBECCO Select…
御菓子司 常盤堂|和菓子[KOBECCO Selection]
アレックス|トータル ビューティーサロン[KOBECCO Selection]
永田良介商店|オーダーメイド家具[KOBECCO Selection]
フラウコウベ|ジュエリー&アクセサリー[KOBECCO Selecti…
L’AVENUE|パティスリー[KOBECCO Selection]…
トアロードデリカテッセン|デリカ[KOBECCO Selection]
ゴンチャロフ製菓|洋菓子[KOBECCO Selection]
ボックサン|神戸洋藝菓子[KOBECCO Selection]
マイスター大学堂|メガネ[KOBECCO Selection]
神戸靴|SPIGOLA(スピーゴラ)
神戸港の1,000万ドルの夜景と花火に酔いしれるboh boh KOBE pre…
連載 教えて 多田先生! 素粒子物理学者の宇宙物理学教室|〜第25回〜
ものづくりの現場に潜入開工神戸が面白い!
出待ちしてもいいですか?|第7回|宝塚の魅力を世界に向けて発信!! 元タカラジェ…
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~ (63)前編 阿久悠
近代建築の巨匠、フランク・ロイド・ライトを学ぶ|Chapter 14 ヒューマ…
神戸市が直面する課題にアプローチ 若い力で解決策を見つけよう!
神戸の夏の一大イベント 「Sailing KOBE 2025」
ひょうご神戸まちかど学だより|身近な社会や話題の歴史を学び考える|宝塚市民カレッ…
兵庫県医師会の「みんなの医療社会学」第166回
神大病院の魅力はココだ!Vol.44 神戸大学医学部附属病院 皮膚科 久保 亮治…
出会いと学びの旅から Vol.19
神戸のカクシボタン 第139回 地元にまつわる妖怪・UMA・生物の謎を探る!!『…
連載エッセイ/喫茶店の書斎から 110 羽化登仙
今月の映画
有馬温泉歴史人物帖 ~其の弐拾八~ 九鬼 隆一(くき りゅういち) 1852~1…
ベトナム元気X躍動するアジア 第19回|世界遺産ハロン湾―レベルアップした魅力