7月号

有馬温泉歴史人物帖 ~其の弐拾八~ 九鬼 隆一(くき りゅういち) 1852~1931
前回の続き。田中芳男先生が有馬贔屓になったのはなぜなのか?その理由の1つに考えられるのが、九鬼隆一男爵の影響でございます。
男爵の幼名は星崎貞次郎。三田藩士の家の子でしたが、三田藩主九鬼隆義の仲介で綾部藩家老の九鬼隆周の養子となり、名を九鬼隆一と改めます。そういえば九鬼の当主は名前に「隆」という字が。と言うことはプロ野球の九鬼隆平選手もその一族?!なるほど、元〝大洋〟のベイスターズに移籍して実力を発揮しているのはその家系ゆえ、まさに水を得た水軍ですな。
話を戻して…男爵は家督を継ぐと程なく同い年の明治天皇が即位して時代が変わり、隆義と昵懇の福沢諭吉に慶應義塾で学んだ後に文部官僚となるとその辣腕で「九鬼の文部省」とよばれるほどの実力者に。その後外務省や宮内庁などにも奉職し、フェノロサや岡倉天心とともに主に美術の方面で文化財行政に情熱を注ぎます。ま、好色家の天心は男爵のヨメに手を出して絶縁されちゃうんですが。
男爵は有馬で療養した1897年頃から本格的に郷里のために行動、同年には東京における有馬郡の同郷団体、有馬会の会長に就任し、1914年には旧有馬郡役所に自身のコレクションを展示した三田博物館を設立しています。
芸術分野が専門の男爵と自然科学や工芸物産のスペシャリストで博物学者でもある田中先生とは、文化財保護や博覧会、博物館創設などの仕事で同じ釜の飯を喰う間柄。故郷への愛が強かった男爵は、先生に有馬温泉の魅力を幾度となく語ったようです。そのご縁でしょうか、先生は有馬を訪ねるようになり、前述の有馬会の特別会員にもなっております。
そしてこの両巨頭は、有馬の「名所旧蹟を保存」しつつ「人智の啓蒙と浴客の娯楽」の向上を目指す有馬保勝会の創設のために一肌脱いだようで、その設立趣意書には総裁・九鬼隆一、会長・田中芳男という記載が。昭和初期なると全国の観光地に保勝会が続々とできましたが、有馬保勝会はそれらに先駆け明治末期の1902年に結成。史跡名勝の保護において先駆的な役割を果たしましたが、この活動を九鬼男爵、そして田中先生の熱い思いと深い見識が支えたのでしょうね。その業務はやがて行政に引き継がれますが、最近になって民間がNPO法人として有馬保勝会をリバイバル、有馬の歴史顕彰と環境保全に頑張ってございます。
なお、有馬地域福祉センターには1924年に男爵が揮毫した扁額が飾ってありますので、ぜひ一度ご覧あれ。