7月号

⊘ 物語が始まる ⊘THE STORY BEGINS – vol.56 女優
十朱 幸代さん
新作の小説や映画に新譜…。これら創作物が、漫然とこの世に生まれることはない。いずれも創作者たちが大切に温め蓄えてきたアイデアや知識を駆使し、紡ぎ出された想像力の結晶だ。「新たな物語が始まる瞬間を見てみたい」。そんな好奇心の赴くままに創作秘話を聞きにゆこう。
第56回は〝銀幕のスター女優〟、十朱幸代の登場です。「この舞台に、もう一度、女優人生を懸けてみたい」。そう十朱が言い切る一人舞台が7月20日、大阪市の森ノ宮ピロティホールで開幕する。
文・戸津井 康之
撮影・服部プロセス
女優に引退はない…
私が生きられなかった人生を生きる
女優が惚れた役
「この舞台に懸ける…。そう言いましたが、これが最後という意味ではありません。決して女優を引退するという意味ではありませんからね」
15歳で彗星のごとく女優としてデビュー以来、ドラマに映画、舞台などで活躍。〝国民の恋人〟のキャッチフレーズで一世を風靡。世代を超え、人気を誇ってきた女優、十朱の口から出た「まだ引退はしませんよ」という言葉に、ほっと安堵したファンは多いはずだ。
「だって、女優という仕事には引退はないでしょう」
笑顔でそう言うものの、2021年11月に舞台に立って以来、約4年ぶりの復帰だ。近況を知らされていない、古くからの十朱のファンの多くが、やきもきしながら近況を心配していたのも事実だ。
なぜ、しばらくの間、女優業を控えていたのだろうか。
「ただ、コロナ禍の間、仕事を休んでいただけなんですよ。でも、もう、このまま女優という仕事の第一線からフェードアウトしてもいいかな…。正直、そう思ったこともありました」と打ち明ける。
こう語るのも無理はない。女優としてのキャリアは67年を超える。
「振り返ると、私はとても恵まれた女優人生を生きてきたのだと思います。もう思い残すことはない」とも。
ところが、「私はまだ健康だし、十分、身体も動く。もう一度、この舞台をやってみたい」。休んでいる間に、突然、そんな衝動が沸き起こってきたという。
その衝動とは、「女優として、もう一度、あの恋を生きたい」という抑えきれない感情だった。
十朱が語る〝あの恋〟を描く舞台のタイトルは『燃えよ剣 土方歳三に愛された女、お雪』。作家、司馬遼太郎の人気小説『燃えよ剣』が原作だ。
2013年に初演し、2021年まで計45回上演を重ねてきた十朱の一人舞台である。
盟友と作りあげる舞台
激動の幕末期。鬼神のような新選組の副隊長、土方歳三が、純情一途に愛した、たった一人の女性、お雪を十朱が演じる。
初演から脚本、演出を担当してきた演劇界の重鎮、笹部博司に連絡し、「また、この舞台を演じたい」と十朱は素直に思いを伝えた。
このときのいきさつを笹部に聞くと、「十朱さんはとても飽きっぽい女優で、これまで一度演じたものは二度とやりたいとは言わなかった。再演も好きではありませんし」と明かした後、うれしそうにこう続けた。
「その十朱さんが、もう一度、お雪をやりたい。そう言ってきたんですよ」
音楽、ピアノ演奏を担当するのは、こちらも初演以来の十朱の盟友、音楽家の宮川彬良。
「舞台に上がるのは十朱さんと宮川さんの二人だけ。稽古中、私は演出をしますが、本番では十朱さんの演技と宮川さんのピアノ演奏による二人だけの〝競演〟なんです」と笹部は説明する。
女優として70年近くにわたり、さまざまな役を演じてきた十朱にとって、なぜ、今、選んだ役が、お雪だったのか。
「恋の相手は、鬼より怖いと恐れられた新選組の土方歳三。そんな過激な人生を生きた土方の心を癒す唯一の存在。それが、お雪なのです」。お雪への熱い思いを語る言葉はあふれ出るように続いた。「慎ましく、優しく、激しく、切なく燃え上がった恋…。もう一度、あの恋を生きたい。もう一度、お雪に会いたい」と。
自分とは違う女性の人生を生きること。それが女優…。十朱が「女優という仕事と結婚した」と語ってきた覚悟を目の当たりにした気がした。
「お雪のなかには、私が生きられなかった人生があるように思えるのです」
人気女優として華やかで濃密な人生を歩んできた十朱が言う。
女優業から遠ざかっていたコロナ禍の数年間、どう過ごしていたのか。
「トレーニングのジムに通っていました」と言うので、「週に何回ぐらい?」と問うと、「週6回です」と事も無げに答えた。
14年前、舞台公演後に両足首を大手術した経験を持つがリハビリで克服。「激しい運動はできないですが、日常生活は何の支障もありません」と語り、杖に頼ることもなく元気に歩く姿を見ていて、日頃の鍛錬が想像できる。
いつでも女優として第一線に立つ準備はできていたのだ。
舞台に上がる決意を固めた理由は、「お雪を演じたい」という思いを抑えきれなかったこと以外にも、まだある。
「女優という仕事を続けることで同年代の人たちを勇気づけたり、元気づけることができたら。今、私が、元気にその姿を見せることは責務のようにも感じています」
生涯女優
1942年、東京で生まれた。1958年、NHKのドラマ『バス通り裏』で15歳で女優デビューするや頭角を現し、翌年、木下惠介監督の『惜春鳥』で映画女優デビュー。野村芳太郎監督の『震える舌』(1980年)、伊藤俊也監督の『花いちもんめ』(1985年)、山下耕作監督の『夜汽車』(1987年)など、映画界の名匠たちの傑作に次々と出演。日本アカデミー賞主演女優賞など賞レース常連として、唯一無二のヒロイン像を演じてきた。
昭和の映画史を紐解く名優たちとの共演秘話も惜しげなく語ってくれた。
映画『殺人者を消せ』(1964年)での石原裕次郎との初共演が決まったときのキャスティングの秘話はこうだ。
「女優の北原三枝(石原まき子)さんが石原裕次郎さんと結婚し引退したため、裕次郎さんの相手役を探していたんです。浅丘ルリ子さん、芦川いづみさんがその候補に挙がったのですが、お二人とも都合がつかず、私に出演依頼が来たんですよ」
映画『地獄の掟に明日はない』(1966年)では高倉健と共演した。
「私は身長が約162センチあり、当時、女優のなかで背が高かったから、ハイヒールをはくと長身の石原裕次郎さん、高倉健さんと並んで立ったときにバランスが良かったみたいで…。他の男優の方だと私の方が背が高くなることもあったから」と振り返る。
舞台にも精力的に出演。2017年、芸能生活60周年の節目には一人舞台『キャサリン・ヘプバーン~五時のお茶~』に挑んだ。
ハリウッドの名女優を演じた十朱は、「年齢を重ねたヘプバーンの不安が、日本の女優として年を重ねてきた私には理解できる」と、当時74歳の自分と彼女の人生とを重ね合わせた。
通算45回、お雪を演じてきた十朱だが、「舞台は毎回違う。一度として同じお雪を演じてたことはありません」と強調した。
今年、お雪を演じる意義について問うと、「女性の自立が認められなかった時代をお雪は生きた。生きる時代が早すぎたのかもしれません。今の時代なら、強い信念を持つお雪の生き方は、より共感してもらえるのではないでしょうか」と期待を込めた。
「お雪を演じるのは、これで最後」と語った言葉にも、これまでと違う覚悟を漂わせる。
次に十朱が挑むヒロイン像に興味は尽きない。
2年後には女優デビューから70周年という大きな節目も迎える。
「90代や100歳になっても活躍している人たちがたくさんいます。そんな人たちを見ていたら、私は元気だし、まだ82歳じゃないか、と思うんです」
映画にテレビ、舞台…。15歳から様々な役を演じてきた。
「もうやり尽くした?いえいえ、まだまだやり尽くしたなんて思っていませんよ」と笑みを浮かべた表情に〝生涯女優〟を貫く十朱の強い信念と覚悟がにじみ出た。
『燃えよ剣』
~土方歳三に愛された女、お雪~
日時:2025年7月20日(日)13:00開演 (12:00開場)
会場:森ノ宮ピロティホール
原作:司馬 遼太郎(新潮社)
演出:笹部博司
出演:十朱幸代
音楽・演奏:宮川彬良
公式サイト