12月号
有馬温泉歴史人物帖 ~其の弐拾壱~ シドニー・ギューリック Sidney Lewis Gulick 1860~1945
♪青いユニ着た助っ人は
アメリカ生まれの星戦士
「横浜進化」をスローガンに掲げたベイスターズが26年ぶりの日本一!全ベイが感涙にむせびました。オースティン、ジャクソン、ケイをはじめ米国人選手も大活躍でしたね!そんな彼らの母国では全米を二分する大統領選でトランプ氏が勝ち、今後の日米関係が見えず不安な人もいるでしょう。こういう時には民間交流が大切ではないかと。
20世紀初頭、アメリカでは日本人移民が勤勉すぎて嫌われちゃいます。で、日露戦争に勝ったことで「日本は次にアメリカを攻めてくる」というフェイクニュースを信じるアメリカン・イディオットも現れ、日米間は新たな緊張状態に…。
これをなんとかしようと懸命に動いたのが、シドニー・ギューリック博士でございます。彼は有馬にもなじみのあるアメリカン・ボードの宣教師で、1887年に来日し1906年から同志社で教鞭を執りました。ところが1913年に帰国すると排日運動の激しさに仰天、1916年に新一万円札の渋沢栄一と日米関係委員会を設立し政治に日米友好を働きかけますが…事態は好転せず1924年に排日移民法が成立しちゃう。
そんな状況に博士は大人を見限ったのか、未来の平和のためには子どもたちに親善の心をと1926年の秋、アメリカの人形「親善人形」に日本総領事のサイン入りパスポートを持たせて日本へ発送。なんとその数12739体!台湾や朝鮮を含む当時の日本各地の子どもは歓喜ました。ちなみに二代目快楽亭ブラック師匠の出囃子でもある童謡「青い目の人形」はすでに1921年に発表されていましたが、この活動にともなってバズり、いつしか「親善人形」が「青い目の人形」とよばれるようになった訳で。そして渋沢のよびかけで、日本人形「答礼人形」をアメリカに送り交流します。しかし、その努力むなしく太平洋戦争が勃発。博士は終戦の年に召天、御霊は神戸の外国人墓地にも眠っております。
さて、1903年の夏、有馬温泉で第15回基督教夏期学校が開催され、200名以上が参加しました。ここでキリスト教と進化論をテーマにした講義が2度おこなわれましたが、その講師こそシドニー博士でございました。その頃まだ根強かった「万物は神の創造」という価値観を超えて科学的リテラシーを心得た理知的な博士だからこそ、人形交流ができたのかもです。一方でゲノムから生命進化を読み解く現代にも、生物は神が創ったと信じている一派がアメリカにあるとか。いまや時代はディー・エヌ・エーなのにねー。