12月号
神戸で始まって 神戸で終る 54
わからないことはわからないでいい〜禅のはなし〜
編集の田中さんが「禅」に少し興味というか、僕が時々、禅について語ることがあるので、禅って何かな?という興味でしょうかね。そんなことで、禅についてお話をしてみます。
1967年に初めてニューヨークに行った時は、ヒッピームーブメントのど真ん中でした。ヒッピーの間で、禅はかなり強い関心がありました。僕が日本人だから、日本人は誰でも禅について語れると思ったんですかね。当時アメリカのインテリも禅に非常に強い関心をもっていて、僕が日本人だと知るといきなり禅問答をふっかけてくる者が結構いましたが、僕は禅にチンプンカンプン。西洋近代文明が行き詰まっていて、それをぶち壊すのは日本の禅では、という発想がヒッピーや知識人の間に流布していたように思います。
日本はまだ西洋の近代文明を取り入れようとしているのに、西洋人は西洋の近代文明に絶望して、これを打開するのは東洋の精神では、と鈴木大拙の禅の本に夢中になっていました。アメリカのこのようなムーブメントに、日本は軽く一周も二周も遅れていました。そこで、今日の西洋文化を理解するためには、禅を学ぶ必要があると判断した僕は、帰国と同時に禅寺に参禅することにしたのです。アメリカ人の禅に対する考え方はかなり観念的だったので、僕は禅入門を書物からではなく、いきなり参禅することから、頭ではなく身体から入ろうとしたのです。だから禅の本は一冊も読んでいません。
これがよかったのです。月に二度ばかり、各地の禅寺に参禅しました。二度目に行った浜松の竜泉寺で、井上義衍老師に「何しに来られたのか?」と問われ、「決まってるじゃないですか。悟りに来たのです」とストレートに答えました。するとこの老師は、「あなたはすでに悟っています。人間は生まれながらに悟った存在です。その上にさらに悟ろうとするのですか。それは欲じゃないですか」
いきなり一発「ガーン」とやられました。そして目の前でパシンと両手を打たれました。そして「これは何ですか?」と聞かれました。聞きたいのはむしろこちらです。「あなたはこの手の平の音を聞こうと思って聞かれたのですか」「いいえ。勝手に僕の耳に音が入ったのです」「そうでしょ。聞こうと思って聞いたのではなく、勝手に聞こえたんでしょ。これが禅です」
こんなチンプンカンプンな理不尽なことってありますか。凄いことになったと思いましたが、僕はいっぺんに禅の不可思議な世界の虜になってしまったのです。
禅なんて、探究も追及もするものではないのです。ただ「パシン」というその手の音の意味など、考えることはないのです。こうして僕は禅の世界に入っていったのですが、考えたってわかりません。だから考えないことにしたのです。考えることが今までの常識だったのが、禅寺では考えないことが常識です。こんな楽なことはないと思いました。色んな抱えている問題は、全て考えた結果です。それを「考えるな」と言わんとしているのです。
ほぼ1年間、曹洞宗、臨済宗と宗派の違う禅寺荒らしが始まりました。結論から言います。禅寺で僕が教わったことは、事実を事実として見ることです。パシンと両手を打った事実、これでいいのです。なぜ打ったのかとか、一体このお坊さんは何を考えているのか、なんてどうでもいいのです。
事実は「パシン!」です。このことに意味も目的も計画も大義名分も、そんなややこしいことはありません。われわれは普段、事実を事実として見ている者はあまりいません。それに色々理屈をくっつけて見ているのです。つまり分別をつけて見ようとしているのです。つまり、理屈をつけて、白黒はっきりさせようとしているのです。インテリの世界です。インテリは物事に分別をつけます。白か黒か、どっちかにしたいのです。そんなことは意味のないことです。どっちだっていいのです。無分別でいいのです。
こう書くと何が何だかわからなくなってきた、とおっしゃるかもしれませんが、この世の中にあるものはひとつひとつに意味などないのです。ほっとけばいいのです。禅はこのような世界観をもっています。わからないことはわからないでいいのです。わからないことがわかったらそれでいいのです。
僕が曹洞宗の本山、總持寺に行った時、庭のイチョウの木から黄色い葉っぱが地面に落ちて、実にキレイだったんです。そこへ雲水(若い修行僧)がやってきて、掃いてくれ、と言うのです。僕は反論しました。「こんなにキレイな落葉の美しさがわからないのですか」と。「まあ、そう言わずに掃いてください」
〈このくそ坊主〉と思いながら、掃けと言うから掃きました。するとまた次の日も同じことを言うのです。ざまあみろ、こんな風に毎日落葉は落ちるのです。しかし雲水に言わせると、僕の言葉は理屈です。落ちても落ちなくても、大事なのは「掃く」という行為だと雲水は言いたいのです。「掃け」という雲水の言葉、「事実」に従えばそれでいいのです。また明日も葉は落ちるでしょう。それより「掃く」という事実、それが重要だというのです。
落葉が地面に落ちている様子は確かに美しいかもしれないが、それは理屈なんです。雲水は理屈よりも掃くという行為が重要だというのです。キレイかきたないかは関係ない。ここでは掃くという行為、つまり作務という行為が必要です。それが事実です。だから事実として認めることが必要なのです。
田中さん、おわかりいただけたでしょうか。ますますわからなくなったんじゃないでしょうか。これは頭で理解しようとするとわかりません。
禅はこんな単純なものではないですが、面白い世界です。物事の見方をガラッと変えてくれます。われわれの生活は、どうでもいいことが実に多いのです。どうでもいいことにあれこれ理由をつけて、いいとか悪いとか言っているのです。いいも悪いもそんなものは本来ないのです。どうでもいいことの大海の中で、われわれは、ああでもないこうでもないとやっているのです。
美術家 横尾 忠則
1936年兵庫県生まれ。ニューヨーク近代美術館、パリのカルティエ財団現代美術館など世界各国で個展を開催。旭日小綬章、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞、東京都名誉都民顕彰、日本芸術院会員。著書に小説『ぶるうらんど』(泉鏡花文学賞)、『言葉を離れる』(講談社エッセイ賞)、小説『原郷の森』ほか多数。2023年文化功労者に選ばれる。
『レクイエム 猫と肖像と一人の画家』 2024年9月14日(土)~12月15日(日)
横尾忠則現代美術館(神戸市灘区)にて。
横尾忠則現代美術館