12月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から 103 糸脈
以前なら自転車で走っていた距離はなるべく歩く。健康のためだ。すると思わぬものが目に入る。
西宮の酒蔵通りを歩いていた時のこと。「あら、こんなところに」と不思議なものがあるのに気づいた。お屋敷の塀の上である。小ぶりなスイカほどの赤い電球。若い人はご存知ないだろうが昔の医院の門燈だ。大きな赤い灯りが「ここに医院あり」と深夜も点いているのが心強かったものである。それがさり気なく塀の上に設置されている。
お屋敷は西宮の旧家、堀内家。江戸時代には尼崎藩の藩医を務めたという代々お医者さんの家系だ。
わたしに関していえば、若い日に胸の病を得て先代先生にお世話になった。毎日のように注射に通って仲良くなり、面白く珍しい話をたくさん聞いた。いずれ機会があれば。
その頃、この赤い電球が医院の玄関先を照らしていた。遠い昔の記憶だ。改築の時、廃棄せずに残しておいて下さったのですね。お陰で昔を懐かしく思い出す縁となった。
後日、夜に確かめに行ったが、電気は点いてなくて少し淋しい。
お世話になった先生の弟、堀内泠氏に著書がある。泠氏も医師だったが、郷土史家でもあった。
その泠氏との間にもわたしには忘れられないエピソードがあるが今は触れない。
『兵庫医史散歩』(堀内泠著・平成五年・兵庫県医師会刊)。
泠氏が「兵庫医師会報」に35回にわたり連載した兵庫県の医史をまとめたもの。
濃い緑色のハードカバー、いかにも医学書。わたしは日頃このような格調高い本を手にすることはない。
堀内家が藩医であったことも載っているが、中に「へ~?」と驚く話があった。
〈糸脈〉。
恥ずかしながら浅学のわたしは初めて出合う言葉である。
こんなことが書かれている。
《糸脈とは、江戸時代まで行われていた医師の診療法の一つである。地位の高い人、所謂貴人、特に貴婦人を診察するとき、尊体に触れることはもちろん、接近することさえはばかって、病人の脈所(主として手首、男は右手、女は左手)に絹糸の一端を結び、反対側の端を、次の部屋で医師がもって、糸に伝わる脈拍を図かる診療法である。》
この後、《実際問題として、これでは実効があるはずがないと思われるけれども、だからといって、これがまったく伝説であったと言い切れないのである。》とあり、関連する文献が多々示されている。そして、《諏訪湖の北西、岡谷市のあたりにこんな民話がのこっている。》と愉快な話が紹介されていた。
《戦国時代末期から江戸時代にかけて、戦火を逃れて諸国を巡遊していたという医家の永田徳本は、将軍が大病にかかり、呼び出され診察を求められた。控えると、奥の間から絹糸が伸びてくる。糸脈だ。貴人の脈を直接みることはできない。糸の端をじっと握った徳本は「猫様の脈では…」と席を立つ。猫の足に糸を結んだ典医たちの意地悪を見破った名医である。》
堅苦しいと思われがちな医書の中で、ここは笑えた。
さて、本当に〈糸脈〉に実効はあったのだろうか。わたしは試してみたくなった。そこで、妻に、
「うちに絹糸ある?」と尋ねた。
「ある」と言う。
じゃあ実験だ。妻に協力してもらった。
妻の左腕の脈所に糸を結ぼうとするのだが、不器用なわたしは、細くて滑りやすい絹糸は上手く結べない。なので、妻にわたしの右腕に結んでもらった。今年六月に不整脈(心房細動)のアブレーション・カテーテル手術を受けたわたしを診察してもらったのだ。脈は順調に拍動しているだろうか?と。ところがまったく感じないという。
そこで「紙コップはある?」と尋ねた。「ある」と言う。子どもの頃にやった糸電話を思い出し、これで試してみることにした。
糸でつないだ紙コップを脈所に当てて糸電話遊びの要領で聞いてもらった。しかしやはり「聞こえない」と言う。残念ながら妻は名医ではなかった。
そのあと、わたしたち老夫婦は、しばし糸電話で遊んだ。どんな話をしたのかは内緒だ。
六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会員。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)、随筆集『湯気の向こうから』(私家版)ほか。