2015年
11月号
11月号
日本の発展に尽くした実業家 平生釟三郎
明治45年(1912)、日本における地域コミュニティのさきがけとして、御影・郡家の旧住吉村(現在の東灘区)に「観音林倶楽部」が誕生した。住吉村を開拓した財界人たちによる運営の中心人物となったのが、住吉の歴史を語る上で欠かせない平生釟三郎氏であった。
慶応2年(1866)に美濃国・狩野藩士の家に生まれた平生は、苦学生時代を経て母校である高等商業学校附属主計学校で教鞭をとり、兵庫県立神戸商業学校の校長となった。その後、東京上海保険会社に勤め、損保保険業界の近代化に貢献。川崎造船所の再建も成し遂げて、名声を得ることになった。
明治末期から大正期にかけて、子どもたちの教育問題が重要な課題となっていた。かねてから、人材育成こそが最大の社会貢献であると考えていた平生は、明治43年(1910)に甲南幼稚園、大正元年(1912)に甲南小学校、大正7年(1918)に甲南中学校、さらに大正12年(1923)には7年制の旧制甲南高等学校を創設。その傍ら、個人奨学金制度「拾芳会」を設立し、灘購買組合(現在の生活協同組合コープこうべ)の結成にも尽力している。平生はのちに貴族院議員、文部大臣として、教育制度の改善を提唱した。またブラジル移民支援にも取り組んでいる。
平生は、昭和20年(1945)12月に80歳で死去。あらゆる事業に全力投球した生涯であったが、自邸のあった住吉に残した数々の功績は、その人生を象徴するかのように多彩で偉大なものであった。