11月号
茅渟の海を望む地 山芦屋の歴史と価値
芦屋の歴史を紐解くと、その根源を山芦屋とその周辺にみることができる。
この一帯には遺跡や古墳が多く、阪急電車より北の芦屋川右岸(西側)にはざっと10くらいある。中でも山芦屋遺跡では縄文時代早期からの土器が出土し、弥生時代の竪穴式住居跡も発見されている。また、その西にある会下山遺跡は弥生時代の高地性集落として全国的にも貴重で、国史跡にも指定されている。太古からこのあたりの中心地であるとともに、住むのにも絶好だったのかもしれない。
中世になっても変わらず重要な場所だったようだ。室町時代には南側に三条村が形成されている。戦国期になると芦屋川と高座川を外堀とした鷹尾城が築かれ、その南麓が住居の場であったようだ。鷹尾城は戦に巻き込まれるが、それはこの地が戦略的・政治的な要所だったためであろう。
やがて江戸時代を迎えると、水車産業が発展する。特に江戸末期は大いに栄えたようだ。灘五郷という日本一の酒造地に近接していたこともあり精米が盛んで、照明に欠かせなかった菜種油の搾取とともに一大産業になってなった。明治期になると銅などの金属を伸ばす動力や、名産だった「灘目素麺」の原料となる小麦を挽くのにも活用されたようだ。動力の近代化に加え昭和13年(1938)の阪神大水害で被災し、多くの水車小屋が廃業に追い込まれたが、現在も街の石垣などに見かける石臼や、悲恋の物語「金兵衛車やけ車」の伝説に往時を偲ぶことができる。
明治初期には田畑や山林が広がっていたこの一帯だが、やがて阪急電車の開業などにより開発されていく。芦屋はもともと海岸部から山手へと宅地化が進んでいったが、その多くが耕地整理や区画整備などの都市計画に基づくものであった一方、山芦屋の場合はちょっと様相が違ったようだ。というのも広大な山林を富裕層が購入、自ら切り拓いていったのだ。ゆえにその規模は壮大で、中でも右近権左衛門邸はひとつの丘を占める圧倒的なスケールだった。
ほかにも松岡潤吉邸、山口吉郎兵衛邸、中山悦治邸、渋谷義雄邸などのお屋敷が建ったが、それらはそれぞれ渡邊節、安井武雄、村野藤吾、竹腰健造と近代日本を代表する建築家の作品でもあり、山芦屋はまさに「建築博物館」だった。もちろん、そのような場所は日本でもここくらいだろう。
眼下に茅渟の海を望めば六甲の緑から涼風そよぎ、交通も至便。今も昔も変わらぬこの土地の価値は、これからも色褪せることがないだろう。