11月号
「日本一の長者村」 財界人たちが邸宅を構えた住吉村
南斜面で水に恵まれた住吉エリアは、太古から居住に適した土地だったようだ。現在のJR住吉駅一帯は弥生時代から近世にかけての複合的な遺跡、住吉宮町遺跡で、古墳や集落の形跡が確認されている。飛鳥時代には律令制でここに住吉郷がおかれた。戦国時代までには村ができ、太閤検地のあとは豊臣家の直轄地となる。江戸期には農業のほか、水車業や御影石の切り出しも盛んだったらしい。
明治7年(1874)官営鉄道が開通し、住吉駅が開業。その後、明治後期になると良好な環境に富裕層が着目し、住吉は郊外住宅地として発展していく。
明治33年(1900)頃、朝日新聞の創業者の一人、村山龍平が数千坪の土地を取得。船場の商人たちは「正気を失ったのではないか」と唖然としたそうだが、村山はここに豪邸を建て、その地は現在香雪美術館になっている。これが開発の嚆矢でもあり、郊外住宅地の黎明ともいわれている。
村山に続いて住友銀行初代頭取の田辺貞吉、住友家の総理事の鈴木馬左也も広大な土地を取得。さらに明治40年(1907)頃に阿部元太郎が住吉川沿いの観音林、反高林の土地を開発、住宅地の譲渡をおこない、東洋紡績の社長となる阿部房次郎が取得している。その後も住友本邸、東洋紡社長の小寺源吾邸、鐘紡社長の武藤山治邸、日本生命社長の弘世助三郎邸、野村財閥の野村徳七邸、大林組社長の大林義雄邸、乾汽船社長の乾豊彦邸、武田薬品社長の武田長兵衛邸、伊藤忠の創業者の伊藤忠兵衛邸、岩井商店主の岩井勝次郎邸、東京海上社長の平生釟三郎邸などが建ち、住吉村は「日本一の長者村」の名をほしいままにした。
住吉川の東岸は本山村になるが、ここにも日立鉱山社長の久原房之助が一万坪超の土地(現在のオーキッドコート一帯)に洋館、和館、宴会場まで設け、フラミンゴを飼っていたという逸話も残っている。ちなみに、当時は富裕層のコミュニケーションの場として茶の湯が盛んであり、これらの大邸宅の多くには茶室が設けられていた。
住吉の住人たちは社会基盤も整備していった。阿部元太郎、田辺貞吉、建築家の野口孫市はコミュニティ醸成のため「観音林倶楽部」を設置、ビリヤードや散髪もできるクラブハウスを設けた。さらに明治44年(1911)に甲南幼稚園を開園し、やがて平生釟三郎の尽力もあり甲南学園へと発展する。平生は病院の必要性も感じ、甲南病院を開院した。
住吉は今なお関西屈指の人気の住宅地だが、その基盤は先人たちによって築かれたのである。