1月号
第十一回 兵庫ゆかりの伝説浮世絵
中右 瑛
遊女を身請けした風流大名
姫路城には歴史に残るすばらしい業績でもって名君と謳われたお殿様は数多い。が、中には破天荒な殿様もいたのである。それは35代城主・榊原正岑(さかきばらまさみね)。こともあろうに吉原の遊女・高尾太夫を身請けし、姫路城の、あの千姫御殿と呼ばれた〈西の丸御殿〉に住まわせた、という。ナント! 風流な殿様がいたものだ。がしかし、そんな浮いた話ではおさまらない。殿様は、ついに身の破滅を引き起こしてしまうのである。
君はいま
駒形あたり
ほととぎす
この句は、初代高尾太夫が吟じたものだが、客を思う遊女の心情があふれ、名曲として名高い。三浦屋の高尾太夫は吉原最高〈松の位〉の由緒ある名跡で、世襲され何代も続いた。
2代目は仙台候の殿様に千両で身請けされたが、間男がいることが発覚し、ついには斬首された。死に際、
「体は金で買われても、心までは売りませぬ」
と、女郎の意気を示したという。
3代目は、水戸の為替ご用達商人に身請けされたが、時の流れで同家は破産、追われた高尾は乞食にまで成り下がり、凍死して果てた。哀れな最期は、遊女の宿命でもある。
浪曲でおなじみの「紺屋高尾」は5代目で、生真面目な紺屋にほだされ年期明けに結ばれ、遊女としてはまれに見る幸福な余生を送った。
榊原正岑が身請けしたのは、6代目(10代目ともいう)。
正岑は、もと旗本の次男坊。34代姫路城主だった従兄の政祐が急死したため、一躍、城主にむかえられた。精気満々の18歳。享保17(1732)年の時だった。二年後、白川藩主・松平基知の娘・久姫と結婚するが、産後の肥立ちが悪く死去。江戸屋敷住まいの正岑は、寂しい毎日を過ごしていた。それに加えて、日光代参の希望が幕府に聞き入れられず、不満をつのらせていたのである。
旗本時代、道楽者で通っていた殿様は、悪い癖が頭をもたげた。
「ひとつ気晴らしに、吉原へでも…」
ある日のこと、殿様は家臣を連れて、吉原に出かけた。酒に、歌に、美女に囲まれ、殿様はすっかり吉原が気に入り、それからというものは、吉原に入りびたりになってしまった。
身分が身分だから、そのお相手はいま全盛を誇る高尾太夫。一夜が二夜となり、三夜、四夜となり…会えば会うほどに、殿様は高尾にぞっこん。ついには、身請け話にエスカレート。ついに価がナント! 1000両(2500両ともいう)。さすが殿様は、ポンと、万金をはたいて高尾を落籍してしまったのである。しばらくは江戸屋敷に囲ってはいたものの、巷の風評すさまじく、周囲の目をそらすために姫路城に連れてきて、西の丸御殿に住まわせ、「西の方」とまで呼ばしめた。
ところが、このことが幕府を怒らせてしまった。
「遊興三昧、ましてや遊女を側女に置くとは、何事ぞ!」
乱行を理由に、殿様は隠居謹慎、越後高田に転封を命じられた。ときに寛保元(1741)年、殿様27歳。その子・政永が禄高を半減され、後継者となったが、それもつかの間、同じく越後高田へ転封された。そのあと、松平明矩が姫路城主となる。
それからの正岑は、転封先で高尾と仲むつまじく暮らした。正岑の死後、高尾は仏門に入り、連呂院と号して正岑の菩提を弔ったという。
女におぼれた殿様だったが、町人からは“粋な殿様”として親しまれていた。それは市内の長壁神社に伝わる“ゆかた祭り”は殿様の粋な計らいで実現したものだった。
正岑は“風流大名”の異名をとったのである。
中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。