2015年
1月号

阪神・淡路大震災 20年に寄せるメッセージ 2015年1月17日 神戸から

カテゴリ:

敬称略:順不同

失ったものと、得たもの


株式会社 神戸新聞社
代表取締役社長 高士 薫

「10年ひと昔」という。その「ふた昔」分の時間が、確かに流れ去った。生まれた赤子が成人し、神戸市民の4割が阪神・淡路大震災を経験していない。頭でそうと分かっても、体がまるで納得しない。そんな気分の中で20年の節目を迎える。
 失われた幾多の命、損なわれた生活基盤。遺族や当事者にとっての大震災は、形を変えながら今も続いているに違いない。そして見事に復興したといわれる神戸のまち自体も、震災で生じた空疎を埋め切れてはいない。
 あの日々、がれきの中で、もっといい神戸に、と「創造的復興」を夢見た。コミュニティや市民グループの力が各地で横溢し、NGOやNPOが次々と産声を上げた。社会の課題と、対処法の両面において、被災地は21世紀の日本を先取りしていた。
 震災で失ったもの、そして得たものを、いま一度、見つめよう。怠惰な多忙に陥らず、もっとみんなで地域と社会の将来を考えてみよう。
 貝原俊民さん、今井鎮雄さん、黒田裕子さん。また生き残った私たちが、遺影に、顔向けできるように。

決断然り、行動然り、必要なのはスピード感


カワノ株式会社
代表取締役社長 河野 忠友

 復旧・復興は困難を極めると思った。わが街長田は電気・ガス・水道といったインフラが全滅、弊社工場も半壊だったからだ。ところが先代社長(実父)の不撓不屈の思いにより震災後1か月で靴づくりを再開した。長田がダメなら、暫くは他の地域に工場を移設して作ればよいと発想を転換。スピード感溢れる決断と行動の結果だった。
 昭和ヒト桁生まれの頑固さが、靴づくりの灯を消さないという決意となり、一日も早い復旧が未来へ繋がると語り周囲を動かした。この動きを目の当たりにし、真のリーダーシップとは有事の際にこそ発揮されるものだと実感したものだった。
 あれから20年、この間リーマンショックによる景気低迷、東日本大震災の発生など未曽有の出来事が続いた。既に代替わりし、社長の私が決断し、会社を動かす立場になっていた。都度思うのは、あの震災を経験したから、またそれをきっかけにビジネスモデルを変革し、今に至っているのだから「何とかなるさ」と。ただ決断然り、行動然り、必要なのはスピード感だと。
 あの地震発生時、とても恐かった。余震にも怯えた。二度と経験したくはない。しかし経験したからこそ得られたと思える事も多々あり、将来長い経営者人生を振り返った時、少しでもプラスだったと思えたなら、わが街を破壊した自然の力への細やかな仕返しになると思う。

創業の地、神戸の役に立ちたい


伊藤ハム株式会社
代表取締役社長 堀尾 守

 戦後最大の惨禍と言われた「阪神・淡路大震災」が私たちの街を襲い、多くの尊い命が失われ、たくさんの方が不便な避難生活を強いられたあの悪夢から早や20年が経過しました。そして、西宮市に本社を持つ弊社も不幸にして従業員やその家族の死傷、家屋の焼失や損壊、業務への障害など多くの被害を受けました。あらためて犠牲になられた方々のご冥福を深くお祈り申し上げます。
 さて、震災直後従業員の安否確認や建物・設備などの被災状況の把握に追われる中、神戸市などから支援物資の要請がありました。弊社の80年に及ぶロングセラー商品「ポールウインナー」は、神戸で誕生した商品です。そして、弊社は神戸で大きく成長させていただいた企業です。このような時こそお役に立ちたいとの思いから、震災翌日の18日にポールウインナーをお贈りし、続いて各地の事業所やグループ会社の協力も得て、ハンバーグやハム類を提供いたしました。そして、水道やガスなどのライフラインの休止のために操業を停止していた弊社の主力工場である西宮工場も1月22日から生産を一部再開し、復興へ向けた支援の第一弾として各自治体へポールウインナー50万本を寄贈させていただきました。「事業を通じて社会に奉仕する」は、弊社の社是です。まさにこの言葉を実践することで、神戸の皆さま、地域の皆さまのお役に立たせていただいたと思います。
 また、「創業以来ご縁のある神戸の皆さまに貢献したい」との思いから、2013年10月に神戸市と包括連携協定を締結し、六甲山自然環境保全活動や神戸情報の発信など、幅広い分野で連携・協力を進めております。これまでのように、そしてこれからも、神戸の皆さまへの感謝の気持ちを忘れずに、協力し合いながらお互いに発展する企業であり続けたいと考えております。

さらなる神戸の建築文化の発展のために


株式会社 瀬戸本淳建築研究室
会長 瀬戸本 淳

 20年前の朝、ポートアイランドの19階の自宅にて突然振り子のようにはげしく振りまわされました。
 自分の人生はここまでなのだと覚悟いたしました。とうとう私に天罰が下ったのだと思いました。となりの人(妻)に思い切りしがみつきました。形としては守ってあげたようになりました。
 家財はめちゃくちゃになりましたが、娘たちの寝室(和室)には何もなかったので、なんとか無事でした。長田の方をながめると、大きな火の手が上がっていました。
 深い悲しみ、さびしさを味わうとき、人間相互の親しみが深くなることを知りました。その後は大きな喪失感を抱きながら、仲間の建築家と共に神戸のくらしの復興のため、とり憑かれたように必死で走ってまいりました。再建・復興・建築の創造という仕事を長年させていただいたことに今、深く感謝いたしております。今後も、さらなる神戸の建築文化の発展の一助となるよう情熱をもって奮闘する所存ですので、どうかよろしくお願い申し上げます。

今も忘れられない、人々の熱い力


あわじ島農業協同組合
代表理事組合長 森 紘 一

 朝早く地震の揺れで目を覚ました。家が倒壊するのではないか?と思った。家内中が目を覚まし、一同が集まった。揺れも収まり一息ついたころ電話が鳴った。旧北淡町に在住の叔母がタンスの下敷きになったので、すぐ来て欲しいという。自分のほか2名を連れて家を出たが、2,30キロ走ったところで道路に亀裂が入り通行できない状態で、家屋のほとんどが被害を受けているのを目の当たりにして、事の重大さに驚かされた。叔母はその後、地元消防団により救助された。
 当時、私は建設業に携わっていたので、近隣の道路が通行できるよう同業者と連絡を取り合い、順次応援を要請して、何とか淡路島内の交通の応急対応ができた。その後兵庫県庁から緊急対策会議の出席要請を受け、会社の作業船にて神戸に出向いた。港湾の岸壁はどれもこれも壊れていたため上陸するのもやっとの思いであった。陸に上がれば長田区の火災は大きく、阪神高速の橋梁は殆どが倒壊していた。
 県庁では早急な被害対策に当たるよう、県下全域の業者の担当を割り振るよう依頼され、淡路島の業者は長田区を、伊丹の自衛隊と共に対応することになる。一日も早い復旧と町の再建を望み、皆が思いをひとつにした。あの惨状の中、人命救助からごみ処理まで、被災された方々の力も借りながら、死にもの狂いでの復旧に汗を流した。その時の人々の熱い力は、今も忘れられない。県庁の方々の寝ずの対応にも感謝している。

震災が本当に大切なものを教えてくれた


株式会社 オフィスマーメイド
代表取締役社長 谷口 享子

 今年成人式を迎える息子が生後7カ月の時でした。都市直下型大地震で、死者6434人、全半壊計約25万棟。どれだけの人が、この神戸でこのような大地震が起こると想像していたでしょう?私たち人間は、自然の猛威の中でなすすべを持ちませんでした。これが近代国家日本の現実なのでしょうか?建物の下敷きになった人たちを救うこともできず、迫りくる炎の前に何もできずに茫然と立ち尽くす人たち。
 この悲惨な出来事から、20年。私たちは、そこから何を学び、成長したのでしょうか?防災・減災のため、建造物の耐震基準を強化し、ハザードマップを作り、災害時の行政の対処の仕方・行動・救助体制・ボランティア組織・コミュニティー作りなど、あらゆる分野で、色々な角度から研究してきました。
 そして阪神・淡路大震災は、私達に改めて沢山のことを教えてくれました。長い歴史を持つ大自然の営みの中で、人間が造った形ある物のはかなさ、人間の無力さ。そして改めて、本当に大切なものが何かを教えてくれました。自然に畏敬の念を持ち、共生することの大切さ。人と人とのつながり、人間が持っている暖かさや優しさ、常に人のために何ができるかと考える気持ち。そういった人間同士の思いやりや触れ合い、コミュニティー作りが、これからの私たちの社会で本当に大切なものであるということ。私たちは、次の世代に引き継いで行かなければならないと思います。

ともに神戸からはじまるしあわせ


株式会社フェリシモ
代表取締役社長 矢崎 和彦

 阪神・淡路大震災の発生当時、会社は大阪にありましたが神戸への本社移転を決定していました。私の自宅も大きな揺れに見舞われましたが、会社も自宅も特に大きな被害はありませんでした。
 出社して驚いたのは、全国のお客さまからたくさんのお電話やファックスをいただいたことです。励ましのメッセージや、「神戸のために」と送金していただいたり、ご購入以上の金額を振り込まれて「差額を役立ててください」という方までおられました。お客さまは商品を買っていただく「買い手」ではなく、ともによい社会を創造していくパートナーであることをはっきりと認識した瞬間でもありました。
 それ以降、様々な支援活動を行いました。当社が全国のお客さまに被災地のための「毎月百円義援金(基金)」を呼びかけたところ、6年間で約4億円が集まり、多方面にわたるご支援をすることができました。
 全国から神戸・阪神間に多くのご支援や協力が集まり、1995年は「ボランティア元年」と呼ばれています。後に諸外国からも「奇跡の復興」と称される復旧・復興を成し遂げました。神戸市は今、アジアの最も住みやすい街のランキングで3位にあります。
 これまでの20年間で発揮されたパッションやパワーやネットワークの結束力を持続させることができたとき、神戸は更に輝く未来を創造し続けていくことができると信じています。

“想い”こそ、エネルギー


株式会社 神戸クルーザー・コンチェルト
会長 南部 真知子

 阪神・淡路大震災の直後、「社力の全ベクトルを神戸に向ける!」と、㈱パソナに神戸復興支援プロジェクトが立ち上がった。
 第1弾が、総面積3万㎡余の大規模デパート、神戸ハーバー・サーカス。復興という大義の下に、会社内外の必死の想いと力が、あの場に集結した。日本初の「エンタメ型デパート」を象徴するトラムは、2003年7月の閉鎖まで走らせ続けた。震災のため店を失った人に、坪1万円で提供した1坪ショップも話題を呼んだ。募集30区画に対して、応募は1万件余。オープン日には感動で泣き笑いの顔が溢れた。震災後1年余で1500人の雇用を創出したことを、改めて誇りたい。
 翌年7月、「海の復興」を目指してレストラン船が就航。書き尽くせぬほどの、偶然や必然や愛や情熱などが詰まった経緯を想う。私は、人事ディレクターとして船の研修にも携わったが、あの時の社員の瞳の輝きも忘れられない。特に、震災の煽りで廃業し一度離れたこの船に、再度乗れることになった社員の歓びはひとしおだった。
 デパートも船も未知の分野。容易とはいえないこの2つの大事業を、多くの人が「理念」を基軸にして心を1つにして働き、周囲の方々や顧客の有形無形の励ましによって続けてきた。震災時に輸送船として活躍したこの船は、「コンチェルト」として早17年半になる。
 憧れの街、神戸。ご恩返しの形は時代につれ変わるが、「私色の神戸の襷を掛けたリレー選手」として自分のトラックを元気に走り続け、次の世代に渡したいと思う。

神戸が日本一美しい街になりゆくために


株式会社カミネ
代表取締役社長 上根 亨

 阪神淡路大震災が起きた20年前のあの日、それは私にとって新たな人生の転機となりました。
 当時、私のお店の周辺(元町、大丸界隈 三宮センター街など)は、大きな被害を受け、数ヶ月から何年も荒れ果てた状態が続きました。20年たった今、神戸の中心部であるそれらの地区は見違えるほど整備され、日本でも有数の洗練された街並みとなりました。私は当時、神戸の街に少しでも早くお店を復元し、たとえひとつの小さな宝石や時計でも、それが皆様に夢とときめきを与え暗いムードを少しでも明るくできればと思い懸命に働きました。それが震災復興に少しでも役立つのではと思ったからです。
 そして、その思いが今も仕事のバックボーンとなっています。私はお店そのものが人生だと思っていますので、その意味で「あの日」は仕事に対する考え方として大きな転換点となったと思えるのです。当時、様々な方面からの溢れんばかりの励ましの言葉やご支援は心に響くものでしたし、今も忘れがたい数々の温かいメッセージは、生きていく上で人の「情」というべきものが如何に大切であるかも教えてくれました。「あの日」から20年経った今、美しくなった三宮・元町の街並みを眺めて、復興に至力されたすべての方々に心から感謝の念を捧げたいと思います。今もまだまだ完全に復興していないのは経済、産業面だけではなく、厳しい被害にあわれた人々の心の中だと思います。今や観光事業となっているルミナリエは、本当の意味で震災の鎮魂、メモリアルイベントとして遠い将来に亘り、1/17のことを忘れさせない事業に変えていくべきではないかと20年を機に改めて思います。様々な面で神戸が日本一美しい街になりゆく事を願い、この神戸の街で震災に教えられたことを糧に精一杯、これからも頑張っていきたいと考えています。

安心・安全な教育環境の構築


兵庫医科大学
学長 中西 憲司

 震災から20年経った今でも、地震があると反射的に身構える。恐怖の記憶が残っている証拠である。残念ながら、地震や火山噴火の予知技術は進んでいない。一方、地震や津波の速報技術はこの20年間に大変進歩した。
 本学が位置する西宮市も阪神淡路大震災で大きな被害を被った。死者の数、負傷者の数、家屋の全壊半壊の数はいずれも衝撃的である。本学は倒壊を免れ、幸い学生、入院患者、教職員、病院職員から1人の被害者も出さなかった。幸運だったことと、誰もが最善を尽くしたからと考えたい。震災の翌月には入学試験を控えており、当日は防寒着を着用した受験生たちが本学へ。トイレの水洗に武庫川の水を使用したことなどは、今でも情景が蘇ってくる。無数の書籍や雑誌で埋め尽くされた図書館は、学生達の人海戦術で見事整理・整頓された。震災は悲惨な爪痕を残したが、人々の間で絆が生まれ、やがて団結力となり、さらに愛校心へ。また、震災を契機に医師中心の医療から患者を中心としたチーム医療へと変わった。
 今年を安心・安全な教育環境構築の年にしたい。ソフト面では減災能力の向上である。昨年、学生人数分の災害対策セット(ヘルメット、軍手、etc.)を用意した。ハード面では、全ての建物の耐震化である。震災の爪痕を残す建物を取り壊し、それらを集約して「新教育研究棟」を建設する。私達の願いは「安心・安全な教育環境の構築」。大震災を経験したからこそ、やり遂げねばならないことである。

震災で得た知恵や知識を若い世代へ伝えたい


湊川神社
宮司 垣田 宗彦

 6400余名の尊い命を奪い、この神戸の地に未曽有の災害をもたらした阪神淡路大震災は、本年で発生から20年の大きな節目を迎えました。改めて震災で犠牲になられました多くの方々に哀悼の意を表しますとともに、心から多くの御霊のご冥福をお祈り申し上げます。
 思い返しますと、あの大震災で、当神社は土塀や鳥居・燈籠・玉垣等の石造物が殆ど倒壊し、境内は無残な姿になりましたが、幸いにも社殿等主たる建物に著しい被害や影響がなかったことは、まさに神明の御加護と感謝するほかありません。
 また、被災後、山口県から柴田病院柴田眼治氏が、いち早く民間医療班を率いて駆付けて下さり、幾度となく夜を徹して物資供給に奔走し、その上病人や負傷者の医療救護に当たって頂き、物心両面からの救援救護が忘れられません。
 しかし、あの大震災以降に起こった新潟の中越地震や東日本大震災、更には台風や豪雨による被害、火山の爆発や噴火による被害が次々と発生して、自然の猛威をまざまざと見せつけられる中、今後南海トラフ巨大地震や山崎断層による地震がいつ起きても不思議ではないこの被災地神戸でも、住民の防災意識が年々低下し、記憶の風化等が進み、震災を経験していない住民が4割を超えるといわれる現在、今後の防災のことを考えると、阪神・淡路大震災復興の過程で得られた知恵や知識を新しい若い世代に確実に伝え、より広く発信することが我々震災経験者の使命であると考えています。

「神戸から世界に」お返しを


六甲バター株式会社
会長 塚本 哲夫

 震災の年は、神戸市中央区の山の手に両親の住んでいた家を建て替え、母と同居を始めて2年目の事でした。当時の2世帯も、今は妻と2人暮らしになりました。
 明け方、突然の突き上げるような衝撃に続いて、長く激しい横揺れ!一瞬何が起こったか理解できず、無意識に布団で頭を覆っていました。家族の無事を確認した後、屋根裏部屋から神戸の街を眺めました。薄明かりの中、数か所から火の手が上がるのが見えました。まさかこれ程の大惨事が神戸の街に降り懸っていたとは、その時想像もしませんでした。
 早朝に歩いて本社に出勤しました。建物は無事でしたが、一歩部屋に入ると、机、椅子、書類が散乱し、無残な状況でした。大きく倒れたコンピューターの無事を確認するのに、1週間もかかりました。被災地の渦中にあって、社員に一人の犠牲者もでず、我が家も会社も軽微な被害で済んだことは、運が良かったと感謝あるのみです。
 災害国、日本。毎年のように、台風、洪水、土砂崩れに、火山噴火!東日本大震災は、我々の何倍もの大被害でした。神戸の教訓は、少しは生かされたのでしょうか。鎮魂のための光の祭典「ルミナリエ」も20回。神戸の街は全国からの大きな支援を得て甦りました。神戸サミットの呼びかけに「世界から神戸に、神戸から世界に」があります。神戸の街をもっと元気に生き生きと輝かす事で、「神戸から世界に」お返しをしましょう。

20年を節目の年として新たな一歩を踏み出そう


株式会社エーデルワイス
代表取締役会長 比屋根 毅

 震災から20年が過ぎ、犠牲になられた方への鎮魂の思い、未だ苦しんでおられる方への思いを新たにすることはもちろん一番大切なことです。併せて、21年目に向けて新たな一歩を踏み出すときでもあると思っています。
 この20年でどんどん神戸らしさが無くなってきました。例えば、北野坂や異人館通りには神戸らしいブランドのモデル店があり、絵になる風景で、歩いていても楽しかったですね。三宮商店街、さんちか、元町商店街なども同じです。ところが今は、ナショナルブランドと呼ばれる、どこにでもある店ばかりが増えてきています。神戸ブランドが廃れてきたと言えるのでしょうね。神戸には洋菓子を始め、神戸牛、灘の酒、ファッションなどいろいろあります。行政も一緒になって、ブランドを守るために力を入れなくてはいけないと私は思っています。6年前の姫路菓子博はとてもいい成功例です。大丸を中心とした旧居留地は、神戸らしさを上手く維持しながら発展していますね。いいお手本になると思います。
 私の夢は、洋菓子ショップとカフェ、職人育成学校、そして所蔵しているコレクションを展示するミュージアム、これら全てを一緒にした施設を神戸に造ることです。外部から人を呼ぶのもいいでしょう。しかし、企業や行政、市民のみんなで力を合わせ、市民生活に直結した街おこしをしていくときです。そうして初めて街は発展するものではないでしょうか。

これからの神戸のちからに


Kiss FM KOBE・SRCグループ
代表取締役社長兼グループ会長 横山 剛

 「震災前と震災後」これは、時の基準として、私たちがよく使ってきた言葉です。さすがに近頃はこの時間軸を用いることが少なくなりましたが、少し前までは、まるで震災を境に世界が変わってしまったかのような感覚を持って自然とこの言葉を使っていました。
 最近では、今を基準に、この先神戸がどうなっていくべきか。という時間軸での議論が非常に活発に行われているようになってきていて、本当の意味で震災が終わりつつあると感じています。言葉にすると「もはや震災後では無い」といったところでしょうか。
 一方で震災の記憶を風化させないということももちろん重要です。これは犠牲になった方々のご冥福をお祈りすると共に、今後起こり得る災害に備えるという意味がありますが、私は、それに加えてひとの力の「凄さ」を記憶に留めておきたいと思っています。悲しみや苦しみを背負いながらもひとりひとりが力強く復興に力を合わせ進んでいったひとの営みのちからこそ、次世代に語り、引き継いでいくべきことではないかと思っているのです。そしてこのちからはこれからの神戸の発展に大きく寄与することになるでしょう。私もがんばらねばなりません。

恩師を偲ぶ


株式会社 平尾工務店
代表取締役社長 平尾 博之

 震災直後の神戸で、大きな衝撃を受け早20年が経ちました。
 阪急三宮駅西口付近で、阪急電車の高架を受けていた柱脚が竹を刀で切った様に壊れている光景を目の当たりにした衝撃でした。
 私は大学で建築学を学びました。専攻は、鉄骨構造でした。大学当時の私の理解では、構造計算された鉄骨造建築物は、地震に対して『柳の木が揺れるがごとく』しなやかに反応する柱や梁(床を受ける横の材)が特徴であり、唯一の課題は「柱と梁の繋ぎ部分の強度である」というものでした。ところが、20年前の震災では、そんな私の認識では考えられない光景が目の前に広がっていたのです。
 本来はしなやかに地震を吸収するべき高架橋の柱(直径1m以上に見えました)が、梁の少し下の部分で見事に引き裂かれていました。「なんだこれは・・・??」という自分の認識を崩された衝撃と同時に、卒業研究でお世話になった恩師の大学教授の顔が、急に脳裏に浮かんできました。この瞬間に恩師がそばにおられたら、この光景を見て先生はなんと私に説明して下さるだろうか、先生の頭脳では想定内だったのだろうか、という思いがよぎりました。そして、この未曽有の震災被害からの復興や、この震災から得た新たな学術的事実を糧にした、これからの新しい日本の耐震設計の方向性を示すために果たされる先生の役割は、どんなに大きいものがあるだろうかと想像していました。
 しかし、私が絶大な信頼と尊敬をしていた恩師である神戸大学工学部の金谷元教授は、奇しくもちょうど震災の数日前に、六十代半ばのまだまだこれからの活躍が期待される年齢でお亡くなりになったばかりだったのです。
 私にとっての震災の日は、私の人生の指針をご教授頂いた尊敬する恩師を偲ぶ、忘れがたい日といえます。早、20年が経ちました。

希望を紡ぐ


アート・サポート・センター神戸
代表 島田 誠

 私は神戸の震災体験を「共同臨死体験」と呼んでいます。近代都市において、これだけ多くの人が「臨死」=死ぬかもしれない、という体験を共有したことは稀です。私達は生きていることへの感謝を心の底から感じ、理想郷を垣間見ました。等しく、優しくなり、物欲も消え、共に生きることに感謝しました。信じるに足る社会を、本当に築きあげてきたのか、人と人とが信頼しあい、ともに歩むことの出来る社会意識を培ってきたのかと自問しました。こうした感情は、たとえ長く続くことなく、圧倒的な忘れさせる力のなかに消えていくにしても、絶えず問いかけながら自分の生き方を考えないと、全ては安きに流れるばかりで、けっして時代は良くなりません。震災後の「アートエイド神戸」は東北では「アーツエイド東北」として受け継がれました。「今出来ること」という一人ひとりの小さな道が一緒になって大きな道へどんな困難も乗り越える力となるのではないでしょうか。
 22年前に立ち上げた公益信託「亀井純子基金」が成長し2011年に公益財団法人「神戸文化支援基金」となりました。無名の市民の皆様からこの基金に寄せられたご寄付は73百万円にのぼります。寄付累計一億円の基金を目指しています。
 2015年1月10日から18日までデザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)で開催される「加川広重巨大絵画が繋ぐ東北と神戸」も市民主導で開催される類例のないプロジェクトで、2016年にはフランスに招かれています。フランスでのサブタイトルは「Humanite」です。全てを繋いでいる纜(ともづな)は「希望」によって紡がれているのです。

もっと神戸を自慢しよう!


須磨勝手に観光協会
会長 尾崎 秀則

 念願だった自分の店を開店した8ヶ月後のことでした。1995年1月17日。
 店舗自宅ともに全壊、しかし、家族全員が無事でした。「それだけでいい。それで十分じゃないか。」その思いだけが原動力で乗り切れた数年間。背負っていたものは大きく膨らみ重さも増したけれど、生まれ育ったこのまちの未来にどうしても関わりたいと須磨の地で店舗再建、営業を再開しました。そして、もっと積極的にまちと関わりたいと、地域おこしの真似事のような活動「須磨勝手に観光協会」をはじめたのは今から8年前。もう 震災の傷跡をまちで探すこともむずかしくなっていた頃、きれいに復興した町並みにいつも感じていた閉塞感。何なのだろう、震災直後のあの時でさえ、まちを思い、神戸を思い、「がんばろうや神戸」、地域への愛を共有できたはずなのに。
 私の考える地域活性化の一番大事な部分は「地元愛の喚起」。そのためには地域資源の発掘、「あるもの磨き」を通じて地域の魅力を再発見し、もっと神戸の方々に地元自慢をしてもらいたいのです。住民の笑顔が光り輝くと地域も光り輝く、その光を観たいから人が集まってくる、これこそが観光の本当の意味だと思います。 
 あの日からもうすぐ20年、一緒にもっともっと神戸を自慢しましょうよ!

「普通」がしあわせ


公益社団法人家庭養護促進協会
事務局長 橋本 明

 阪神淡路大震災で被災したお母さんが「被災した子どもたちへ」という手紙を書いています。
「“母ちゃん、しあわせって何?”という君の問いかけにお母ちゃんは答えに詰まりました。それって結構難しい、深い問題なんよ。毎日朝“おはよう”って起きて、おいしいな、ってご飯食べて元気に遊んで“おやすみ”って寝ることかな。」
「そんなん、いつもやんか。普通がしあわせなん?」
「うん、普通ってすごいことなんやで。普通のしあわせが急に、突然無くなってしまうことがある。震災が教えてくれたことです。君が普通のしあわせを大事に思ってくれたら、普通を無くした人にそっと寄り添える人になってくれたら、お母ちゃんはしあわせです。」
 この親子の会話から、子どもはいつも自分がしている、ごく普通の、当たり前のことがしあわせなんや、ということを改めて考えたのです。
 東日本大震災で家族を失ったある女子中学生は「震災前の普通の暮らしがしたい。毎朝起きて“おはよう”というお父さん、お母さんがいる。学校へ行ったらいつもの友達がいる。今までの当たり前の生活を取り戻したい」と話していました。震災で失った家族の大きさ、ごく当たり前の平凡な生活が輝き、まぶしく、いとおしく思えるのです。毎日の平凡な暮らしのもつ深い意味や価値を震災は改めて教えてくれました。

「多様性」から生まれる可能性


NPO法人多言語センター
FACIL理事長 吉富 志津代

 阪神・淡路大震災からの20年は、私にとって長い長い歴史のページを綴るようで、それまでの人生とは違うさまざまな経験をしました。1995年に生まれた赤ちゃんは成人式を迎えます。それなのに、つい先日のことのようにも思えるのは、その経験があまりにも衝撃的だったからでしょうか。
 あのとき、被災者はみんな不安な気持ちでした。特に外国にルーツを持つ住民たちは、言葉や制度の壁のせいで、恐怖さえも感じたと思います。しかし、みんなが同じ被災者になったことで、出自、年齢、性別などに関わらず、みんなが自分のできることで助け合ったのも事実でした。
 そして立ち上げられた多言語のラジオ局が「FMわぃわぃ」でした。今も10言語で地域のさまざまな声を届け続け、翻訳/通訳のための「多言語センターFACIL」などとも連携して活動を展開しています。
 20年前に気づかされたのは、住民自治の大切さと、その住民がいかに多様であるかということ、その多様性を活かすことで広がる可能性の大きさでした。しかし、20年経って、一方では耳を覆いたくなるヘイトスピーチが聞こえてきたり、違うものを排除しようとする動きもあります。期せずしてラジオの機材は疲弊して動かなくなってしまいました。放送を続けるためには、多くの方の協力が必要で、みんながこれを必要としているかどうかが試されています。この節目に、震災からの歴史を振り返り原点に戻って、私たちのまちにとって何が大切なのかを思い起こし、多くの犠牲になった方達に報いるためにも、もう一度あのときの力を奮い立たせるときなのかもしれません。

憎しみの連鎖ではなく、支えあいの連鎖を広げよう!!


被災地NGO恊働センター
代表 村井 雅清

 阪神・淡路大震災から丸20年を迎えた。「ボランティア元年」と言葉に象徴されるように、あの時から国内外の災害被災地には、ボランティアが駆けつけるようになった。ボランティアの機能と存在は、「新しい公共」の担い手として注目された。
 ここ被災地から、「困った時はお互い様」という支えあいの文化は継承され、また世界中に発信してきた。残念ながら世界の各地で紛争が絶えないが、私たちは憎しみの連鎖ではなく、支えあいの連鎖を広げることを誓い、この20年間市民による救援活動を続けて来た。
さてヒトは、20~30万年前に出現し今日まで歩んで来た。きっと、太古の昔から人は支えあい、助けあって生きてきた筈だ。つまり、これからも営々と同じ営みを私たちは続けていくだろう。
 12000年前に、私たちと同じ先祖を持つモンゴロイドはベーリング海峡を歩いて渡り、北米のネィテイヴアメリカンの居住地に定住し、現在も生き残っている。彼女たちは、闘わないことを誓いながら危機を乗り越えてきたという。この知恵は、私たちも継承しよう!!

よみがえる神戸の守り神


生田神社
宮司 六車 勝昭

 20年前の震災時は、生田神社は拝殿が全壊し、地に這う拝殿は国内外に報道されました。
 直後は、境内が危険だということで門を閉めていたのですが、たくさんの方が門の外から本殿に手を合わせ、拝礼されていたお姿は忘れられません。それを見て「神戸の守り神として復興のさきがけにならなくてはいけない」と、加藤宮司以下全員が強く感じ、職員、氏子同意の下、早々に再建に取り掛かりました。自宅の再建もままならないにもかかわらず、多くの氏子さんたちにご協力いただき感謝しております。
 生田神社は、源平の戦以来幾多の戦禍、神戸大水害、戦災、先の大震災と次々災難に見舞われながらも、その度によみがえってきました。今では「よみがえりの神」としても親しんでいただいています。今後も市民の皆さんの憩いの場になれますよう、鎮守の森の緑を増やし、木々を植えるなど街のオアシスとして歩んでまいりたいと思います。

〈2015年1月号〉
特集 ー 豊かな自然と住環境を 市民自ら守る街、芦屋を歩く
芦屋を歩く(2) 日本料理 ふる里
芦屋を歩く(3) 山海百味 一駛 (ひとし)
芦屋を歩く(4) 日本料理 あめ婦
芦屋を歩く(5) レストラン あしや竹園 (ホテル竹園芦屋 直営レストラン)
芦屋を歩く(6) PAN TIME (パン タイム)
芦屋を歩く(7) アンリ・シャルパンティエ 芦屋本店
芦屋を歩く(8) 芦屋 田中金盛堂
芦屋を歩く(9) Pantry パントリー芦屋店
芦屋を歩く(10) 芦屋神社
[対談]神戸の明るい未来をめざして
阪神・淡路大震災 20年に寄せるメッセージ 2015年1月17日 神戸から
キュレーターが震災を語り継ぐ 1月17日よりスタート
新連載コラム 「第二のプレイボール」Vol.1
芦屋と平田町 そのあゆみと価値
モダニズムと和洋がオーバーラップ 芦屋ならではの建築文化が生まれた
祖父母との思い出を紡ぐ「芦屋の中の京都」平田町 《ギャラリー開雄》
“上等な”暮らしではなく、“幸せな”暮らしがある 《稲畑邸》
テニスを通して、 社会に貢献する《芦屋国際ローンテニスクラブ》
気鋭のフレンチシェフが生み出す芸術品のような一皿 《メゾン・ド・ジル 芦屋》
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