7月号
自然豊かな郊外住宅地として愛され続ける御影界隈
坂本 勝比古 さん (神戸芸術工科大学 名誉教授・工学博士)
「汽笛一声新橋を♪」と、明治5年(1872)に東京新橋―横浜桜木町を結ぶ日本初の官営鉄道が開業。その2年後、明治7年(1874)5月、国内2番目に開業した官営鉄道が大阪―神戸間の路線でした。大阪―神戸間を70分で走ったこの鉄道、途中の停車駅は神崎、西宮、住吉、三宮のみ。「このうち住吉に停車したことが、この地を発展させる要因のひとつになったともいえます」と、坂本勝比古さんは話します。近代資本主義経済によって日本が大きく発展した明治期、財界人がこぞって邸宅を構えた御影・住吉。『日本一の長者村』とも呼ばれたこの地の発展と、そこで芽生えた邸宅文化について、近代建築史研究家の坂本勝比古さんにお話をうかがいました。
坂本さんが『阪神間モダニズム』(平成9年/1997・淡交社刊)で紹介した昔の記録にこんな文章があります。新聞記者であった北尾鐐之助が『近畿景観』(昭和4年/1929)「阪神風景漫歩」の章に描写した、阪神間の生活です。
「阪急電車では、六甲、御影から多くの西洋人が乗つた。神戸から毎日必ず顔を合はせる品のよい老人があつた。その人はいつも御影で降りた。日曜日など、若い娘にニツカーを穿かせて、リユツクサツクを背負つた西洋人の一家が、よく六甲で降りて山に入るのを見た。(中略)
御影=岡本=芦屋川では阪神間における、最もモダーンな色彩を乗せる。それは大概、ブルヂヨアの家族たちで、目のさめるやうな振袖か、でなければ、スマートな洋装である。それは阪神における、有名な実業家の誰々と指すことの出来るやうな人たちであつた。」
御影・住吉の山手地区には、明治の後半から大正にかけて、関西圏の財界人たちが多く邸宅を構えました。
郊外居住のすすめと
イギリスの「田園都市」
―なぜ神戸御影をはじめとする阪神間が住みやすい場所として注目され、住宅地として発展したのでしょうか。
それにはいくつかの理由があり、まず当時の時代背景があります。明治時代、欧米先進国からの影響によるわが国の産業革命によって、商業都市である大阪、新しく開港した神戸という二大都市は大きな発展をとげました。これは東の東京、横浜と並ぶ模範的な発展のしかたであり、とくに近世より国内最大の商業都市であった大阪は、紡績業を中心に工業地域としての発展もあわせもちました。その結果、大阪は人口が増大し、居住地の不足という都市問題を引き起こします。人々の住む場所は、市内の交通が発達する以前は都心を取り囲む港区、西成区、上町台地などの地域でしたが、明治21年(1888)に阪堺鉄道が開通し天下茶屋、北畠、帝塚山方面の住宅地開発が進められました。これは東京では麻布や世田谷などの住宅地が誕生したことに似ますが、大阪の人口増加はそれを超えていて、飽和状態となっていったのです。
結果、明治30年代の中頃から、大阪の富商たちは居住環境の悪さから、郊外に居住することを意識しはじめたと考えられます。
あわせて、阪神間が住宅地として発展したのは、交通機関の発展という要因も挙げられます。
官営鉄道は明治7年(1874)に大阪―神戸間を結んでいましたが、次いで私鉄である阪神電気鉄道が明治38年(1905)、大阪出入橋―神戸三宮間を結んで開業しました。これは阪神間の海岸寄りの町村をつなぎます。そして明治43年(1910)に開業した箕面有馬電気軌道(のちの阪急電鉄)が、大正9年(1920)に大阪梅田―神戸上筒井間の山麓を結ぶ線を開設。ここに、海沿いを走る阪神電車、中間帯を結ぶ官営鉄道(現在のJR)、山麓を走る阪急電鉄という、現在もある阪神間の主要幹線が成立したのです。
阪神、阪急のような私鉄にとって、沿線に住む人を増やし、利用客を増大させることが重要です。関西の私鉄は、沿線の住宅地開発・経営において国内でも先んじていたといわれます。なかでも、阪急電鉄の創業者である小林一三(いちぞう)は、自身の経営方針によって阪急沿線の住宅地開発を積極的に行いました。まず最初に明治43年(1910)、宝塚線沿線の池田室町に住宅地経営をスタートさせ、大正9年(1920)に神戸線が開通した後は、岡本住宅地などを手がけていきました。
私鉄会社はそして、主に大阪で働く人々に向けた「郊外居住」という考え方を発信していきます。阪神電車は『市外居住のすすめ』や月刊誌『郊外生活』を発行して、郊外の住宅地が健康に良いことを強調しました。阪急電鉄は『山容水態』という本やパンフレットを発行し、田園趣味に富む郊外の居住をすすめました。それらは中堅サラリーマンにターゲットを絞ったものでもありました。
東では、東京急行電鉄(東急)創業者の五島慶太が宅地開発を行いましたが、沿線の住宅地開発においてはこのように関西が先駆けていたのです。
ロンドンには同じく、都心が過密になり空気汚染が深刻になっていたころに、レッチワースなどの地域に独立した住宅都市が造られ、「ガーデンシティ」と呼ばれました。ガーデンシティを田園都市と日本語訳し、明治40年(1907)に『田園都市』という本が日本でも内務省から出版され、「働くのも住むのも同じ田園都市で」という考え方が紹介されています。小林一三が、このイギリスの田園都市の考え方をどこまで知っていたのかはわかりません。その海外の発想を取り入れたのかどうかは興味のあるテーマではありますがね(笑)。
「日本一の長者村」
御影・住吉の邸宅街
―御影・住吉地区は、そういった私鉄による住宅開発とはまた違った形式で発展した良好な住宅地であると、坂本先生はおっしゃっていますね。
阪急電鉄開業よりも前に、御影の土地に目をつけていた人物がいます。朝日新聞創業者のひとり・村山龍平(りょうへい)です。彼は明治30年過ぎ、御影町郡家に数千坪の土地を購入しました。当時まだ一帯は原生林が広がり、狐狸が出没していたといわれる地でしたから、船場の商人たちには「村山は正気を失ったのではないか」と言われたとか(笑)。しかしこのことは、村山龍平翁に先見の明があったといえるでしょう。その後、住友銀行本店の初代支配人であった田辺貞吉が住吉村反高林に、同じく住友家の総理事を務めた鈴木馬左也が御影町郡家に、大規模な邸宅のための土地を取得します。
それ以降この地域には、日本で有数の富豪たちといえる紡績関係会社をはじめとする有力商社のオーナー、社長、重役たちの私邸や別邸、関西系の財閥、製薬会社、不動産業を営む船場の富商たちの邸宅が構えられていきました。
彼らの邸宅は、建物自体もそれぞれに風格あるものが造られました。それほど規模が大きなものでなくても、著名な建築家たちによる住宅も多数存在したのは、住む者たちのステイタスから来るものでもあります。伝統的な和風建築なら腕の良い棟梁を呼べばできますが、洋館となると建築家に設計を依頼しなければなりません。当時の建築家、たとえば野口孫市はイギリス留学の経験があり、先ほど言いましたロンドンの郊外住宅地のデザインを吸収していたと考えられます。野口が設計した田辺貞吉邸はハーフティンバーを用いた西洋館であり、これはもっとも先進的な住宅だったのでしょう。御影に最初に土地を求めた村山龍平はまず西洋館を建てましたが、その設計をしたのは東大建築学科を卒業した河合幾次でした。村山はその後に玄関棟、書院棟、茶室棟からなる和館を建てています。村山邸は現在は香雪美術館に隣接していて非公開ですが、深山幽谷を思わせる緑の中にあって、今もかつての面影をとどめています。
現在も残る邸宅には、渡辺節の設計による乾汽船社長の乾豊彦邸があります。ほかにもこの地域にはW・M・ヴォーリズや安井武雄、松室重光、村野藤吾、西村伊作らの設計による邸宅が建ち並んでいました。
とくに、西村伊作は大正8年(1919)、『楽しき住家』の出版や文化学院を創設しました。自身も大正10年(1921)、御影に西村建築事務所を開設することになりました。戦災や震災、時代の移り変わりによってなくなってしまった建物も多く残念ですが、御影・住吉の雰囲気は、現在も当時と変わらないゆったりしたものです。
御影・住吉は六甲山麓の緑豊かな恵まれた環境にありました。山麓から湧きだす水は良好な水質で、灘を日本一の酒どころとした要因のひとつであるおいしい水「宮水」として用いられています。気候は温暖、緑も豊富で眺望にも恵まれた自然環境は非常に親しみやすい土地だといえます。
一方で、この地に移り住んだ関西の実業家たちは、私立の幼稚園や小学校の開設を提案し、のちの甲南学園へと発展します。田辺貞吉、野口孫市、阿部元太郎らは「観音林倶楽部」を設立して、平生釟三郎(ひらおはちさぶろう)の甲南学園設立を支援します。「観音林倶楽部」を中心に、地域のコミュニティを深めるなど、恵まれた住環境はそこに住む人々によってますます整えられていきました。
そんな歴史のある地ですから、雰囲気もどことなく穏やかなのもうなずける気がします。
ロンドンの郊外住宅地や、「ガーデンシティ(田園都市)」などのイメージ、英国人J・W・ハートが設計した旧居留地など、神戸にはヨーロッパの影響を強く受けた部分が多くあります。御影もそのひとつで、白い壁と木の柱といったイギリス風のディテールが施された邸宅(ハーフ・テンバー・スタイルの西洋館)が、往時は緑の中に多くたたずんでいたことでしょう。
坂本 勝比古(さかもと かつひこ)
大正15年(1926)、中国山東省青島市生まれ。旧制神戸工業専門学校(現神戸大学工学部)卒業、神戸市建築局、教育委員会、ICOMOS(ローマ)留学。千葉大学工学部教授、神戸芸術工科大学教授、同名誉教授。1996年第22回明治村賞受賞。1998年神戸市文化賞受賞。2017年日本建築協会賞受賞