7月号
連載 神戸秘話 ⑦ デザイン都市の象徴を手がけた偉大な建築家 置塩 章(おしお あきら)
文・瀬戸本 淳 (建築家)
半年も連載を続けると、ありがたいことに読者からさまざまな反響をいただくが、「建築関係の人物を紹介して欲しい」という声が少なくないので、今回はそれに応えよう。
私は兵庫県建築会の9代目の会長を仰せつかっている。歴代会長には偉大な人物の名が連なり恐縮しているが、中でも3代目の置塩章先生はもっと評価されてしかるべき建築家だ。
置塩先生は明治14年(1881)に静岡県島田市の
生まれで、明治39年(1906)
に東京帝国大学造家学科に入学。後に竹腰健造とともに日建設計の基になった長谷部竹腰事務所を創設した建築家、長谷部鋭吉と同期で、友情は生涯続いたという。
卒業後は技師として陸軍省に入省。大阪市の第四師団に配属され管轄下の営繕事業を手がけ、旧大阪砲兵工廠化学分析場(現存)などの設計を担当した。
そして大正9年(1920)、
都市計画法施行にともなう技師増強のため兵庫県庁へ移籍し、営繕課長などを務めた。兵庫県会議事堂や旧尼崎警察署など公共建築を多く手がけただけでなく、今なお公文書などで使われている兵庫県の徽章(きしょう)は大正10年(1921)に置塩先生がデザインしたものだ。
昭和3年(1928)に兵庫県を辞し独立、置塩章建築事務所を開設。国立移民収容所(海外移住と文化の交流センター)、兵庫県信用組合連合会事務所(駐神戸大韓民国総領事館)、旧加古川市公会堂(加古川市立加古川図書館)など今なお親しまれている名建築を県内各地に残している。現在「デザイン都市・神戸」のシンボルになっている国立生糸検査所(現・KIITO)は代表作だ。県内のみならず、茨城県庁舎や宮崎県庁舎、鳥取県立図書館など全国からの設計依頼にも応えている。ネオゴシック様式の大型建築を得意としたが、住宅にも手腕を発揮。県立病院院長の小川瑳五郎の依頼を受け、阪神間モダニズム華やかなりし昭和5年(1930)に御影に洒脱な洋館を設計している。ちなみに置塩先生は自らも御影に住まいを構えた。
設計だけでなく建築家の育成にも尽力、神戸高等工業学校(現在の神戸大学建築学科)でも教鞭を執っていた。置塩先生は優秀な教え子であった中川文雄さんを自らの事務所に招聘、中川さんは期待に応え置塩先生の片腕として活躍、やがて兵庫建築士会の会長まで務めた。仕事中の二人は仲が良い最高のコンビだったという。
私が若かりし頃、置塩章建築事務所は神戸で一番大きな設計事務所だった。実は中川文雄さんの息子の中川進君と私は高校時代からの友人で、お宅にもよく遊びに行った。私が置塩章建築事務所に入れて欲しいとお願いに上がった時、ちょうど置塩先生が亡くなられたばかりの頃で、今思うと事務所は大変な時期だったのだろう。中川文雄さんは安井事務所を紹介してくれた。私はそこで8年キャリアを積むことができ、人生が大きく変わったのだ。
さて、置塩先生は歴史に造詣が深く、歴史的大発見にも深く関わっている。その話は次回に。
※敬称略
※阪神間モダニズム」展実行委員会編著『阪神間モダニズム』、近代建築青空ミュージアムブログなどを参考にしました。
置塩 章(おしお あきら)
建築家
明治14年、静岡県生まれ。明治43年に東京帝国大学工科大学造家学科(建築学科)を卒業、陸軍技師として陸軍省に入る。大阪砲兵工廠の勤務を経て、大正9年に兵庫県庁に移り、兵庫県徽章のデザインを行った他、県会議事堂、警察署、学校など多くの施設の設計を指導。昭和3年に兵庫県庁を退職後、置塩章建築事務所を開設。神戸高等工業学校(現・神戸大学建築学科)の講師も務めた。兵庫県建築士会の初代会長、兵庫県建築会会長、日本建築士連合会理事などを歴任し、昭和33年に藍綬褒章を受章
写真提供/(一社)兵庫県建築会 事務局
瀬戸本 淳(せともと じゅん)
株式会社瀬戸本淳建築研究室 代表取締役
1947年神戸生まれ。一級建築士・APEC アーキテクト。神戸大学工学部建築学科卒業後、1977年瀬戸本淳建築研究室を開設。以来住まいを中心に、世良美術館・月光園鴻朧館など、様々な建築を手がけている。神戸市建築文化賞、兵庫県さわやか街づくり賞、神戸市文化活動功労賞、兵庫県まちづくり功労表彰、姫路市都市景観賞、西宮市都市景観賞などを受賞