3月号
音楽のあるまち♬6 ロックを通して震災を次の世代に伝え、減災につなげる
株式会社パインフィールズ 代表取締役 松原 裕 さん
今年の開催で14回目を迎える「COMIN’KOBE」。
実行委員長の松原裕さんにロックのこと、イベントのことなどお聞きしました。
―松原さんとロックとの出会いは?
中学のころ、亡くなった後ですが尾崎豊さんです。自分でも分からない苛立ちの代弁者が尾崎でした。高校時代はバンド漬け。自分で曲を作って苛立ちをぶつけた、と言いたいところですが僕自身が考えたのは、売れる曲。
―売れる?お話が矛盾しているような…。
意外と現実的で、成功したいという思いがありました。インディーズCDデビューが決まり、大学もやめ、ツアーで全国を回りました。高校時代からアルバイトをしていたライブハウスの店長の仕事とバンド活動を両立させ5年ほど続けました。
―その後、裏方に回ったのは何故?
自分の才能は分かっていました。プロとして限界を感じた23歳のとき、裏方に回ろうと起業し2年後「COMIN’KOBE」を始めました。
―「COMIN’KOBE」は震災の経験から始まったのですか。
僕が中3の時、震災が起きました。大変なことが起きているのは分かっていましたが、まだ親に守られている年齢でしたし、学校は休校で勉強しなくても高校進学できたし…。本当に申し訳ないのだけど、非日常をお祭りのように感じていました。
―震災と向き合うようになったのは?
バンドで全国を回り「神戸から来た」と話すと、「当時は何もできなかったから」と親切にしていただき…当時遊んでいた自分と今親切にしてもらっている自分との間にギャップが生まれました。そして自分の罪滅ぼしをしたいと思い始めました。
―それが「COMIN’KOBE」につながったのですか。
震災後10年、神戸市が「震災復興は完了」と宣言しました。見た目はきれいになったけど、実際は完了していない。催しなどに参加しても、僕より若い人はほとんどいない。語り次ぐ相手に伝わっていないのに「完了」というのなら、民間で頑張ろうと思いました。
―どんなふうに始めたのですか。
音楽を通して若い人にも自発的に考えてもらえるイベントをしようと考え、チケットは無料とし、ボランティアで参加して何かの役に立つという体験をしてもらうことにしました。震災パネル展の実施などから始め、今年で14回目を迎えます。
―現在はどんなイベントですか。
伝えるだけではなく、それを防災・減災につなげていくことが重要です。会場内の「減災ヴィレッジ」をコンセプトゾーンとして啓発コーナーを集めています。若者に対して影響力を持つアーティストのトークコーナーや阪神・淡路と東日本の発生時刻「05:46→14:46」を刻印したリストバンドの販売などは成功例です。寄付金も昨年は約1350万円という過去最高額を記録しました。
―今年は何か新しく考えているのですか。
今本当に必要な支援は何かをしっかりと検証し直す時期がきていると思っています。今年は寄付の目的を直前にドンと発表して募ろうと検討しています。初めての試み、さて結果はどうなるか…。
―神戸に続けと全国でもイベントが生まれているとか。
「COMIN’KOBE」がきっかけという訳ではありませんが、岩手県の大槌町では全く同じ趣旨のロックイベントが始まっています。気仙沼や盛岡、名古屋など全国的に広がっています。
―ご苦労もされてきましたね。
当初は全く市民権を得ていませんでした。〝うるさい〟音楽ですから会場も追い出され(笑)。07年からは行政から離れて開催を続けてきましたが、「COMIN’KOBE」が平成25年度神戸市文化奨励賞を受賞。市民権を得るところまで漕ぎ付けました。「ロックなんて!」と親御さんに怒られている若いバンドマンたちの為になったのであれば嬉しいことです。
―神戸は音楽が溢れるまちになれるでしょうか。
そうしたいです。僕自身も行政に対していろいろと働きかけていますし、動いていただいています。海外のように街角でバンドが演奏していて、歩いていたら音楽が聞こえてくる。それだけできっと〝あがる〟まちになれると思います。