6月号
連載 神戸秘話 ⑥ 多彩な人物がさまざまな業界で活躍
森垣ファミリーの人々
文・瀬戸本 淳 (建築家)
前回は神戸港を近代的な〝港湾〟へと改修する一大プロジェクトを手がけた技術者、森垣亀一郎について綴ったが、彼のファミリーには錚々たる人物が名を連ねている。
義父の神矢肅一は豊岡小学校の校長を務めていた時、才能がありながら家が貧しかった幼き亀一郎に目をかけ、進学への道を拓いた人物だ。その後、兵庫尋常小学校や神戸尋常高等小学校などの校長を務め、晩年は東京で私塾を開くなど有名な教育者で、長いあごひげの名士であったという。
その弟、沖野忠雄は土木史上に名を残す偉大な技術者だ。東京帝国大学で学ぶ亀一郎へ学資の援助もおこなった。豊岡藩の貢進生として大学南高(後の東京大学)へ進学、その後フランスへ5年ほど留学し近代土木を学ぶ。帰国後は淀川の改修や大阪港・神戸港の築港など国家的プロジェクトなどで手腕を発揮し、手がけた港湾は80カ所、河川は100カ所以上という。
亀一郎の妻、ふみの妹にして、神矢肅一の三女の福子が嫁いだ藤井家は、秋田藩の御殿医の流れを汲む家柄。秋田藩佐竹家の伝薬をもとに、藤井家代々により編み出されたのが「龍角散」だ。福子の夫、藤井正太郎は京都大学医学部を卒業し、御影で藤井医院を開業した。水泳教育にも尽力し、関西学生水上競技連盟や御影水泳教育研究会を創設。古式水泳に通じ、巻き足や踏み足などその技術を伝承したからこそ日本はシンクロナイズドスイミングの強豪国になったのかもしれない。元総理大臣の鳩山一郎とも親しかったそうだ。
正太郎の義兄にあたる二代目藤井得三郎は龍角散の会長を務めた人物で、亀一郎と交流が深かった。関東大震災後に大阪へ工場を移し事業を復興するにあたり、亀一郎が船会社との交渉などで協力して製品や救援物資の輸送が可能になったという。
さて、森垣亀一郎は4男1女をもうけたが、教育熱心な家庭だったようで、4人の子息はみな神戸一中(現在の神戸高校)を出て、長男から三男は京都大学、四男は東京大学に進学している。三男の清は法学部を出て行政監察庁に勤めたが、ほかの3名はいずれも工学部を卒業し、父と同様に交通インフラを支える仕事で社会に貢献した。
亀一郎は港湾の専門家だったが、長男の茂は地下一筋。大阪の地下鉄建設に関わり、後に神戸市水道局長や神戸地下街専務を歴任した。次男の誠は鉄道畑。神戸市交通局や阪神電鉄などで手腕を発揮し、やがて鉄道車両メーカーの武庫川車両の社長に。四男の勉は父が造った港へと着く船舶の業界へ進み、川崎重工の神戸工場長を務めた。
御影にある森垣胃腸科外科の院長、森垣驍先生は、森垣誠の次男で亀一郎の孫にあたる。実は驍先生の奥様、眞理子さんは私の神戸高校時代の同期生。お嬢様の美智子さんは元キャビンアテンダントで英語が堪能な上、家が近所だったこともあり、私の娘2人に英語を教えてもらうなど、家族ぐるみで親しくさせてもらっている。
思わぬところで神戸港の歴史に名を残す人物と繋がっているのも、神戸らしい話ではないか。
※敬称略
※森垣博士功績顕彰会『森垣亀一郎伝』、赤松啓介『神戸財界開拓者伝』、日本埋立浚渫協会ホームページ、株式会社龍角散ホームページ、藤井大薬房ブログなどを参考にしました。
瀬戸本 淳(せともと じゅん)
株式会社瀬戸本淳建築研究室 代表取締役
1947年神戸生まれ。一級建築士・APEC アーキテクト。神戸大学工学部建築学科卒業後、1977年瀬戸本淳建築研究室を開設。以来住まいを中心に、世良美術館・月光園鴻朧館など、様々な建築を手がけている。神戸市建築文化賞、兵庫県さわやか街づくり賞、神戸市文化活動功労賞、兵庫県まちづくり功労表彰、姫路市都市景観賞、西宮市都市景観賞などを受賞