12月号
映画をかんがえる | vol.45 | 井筒 和幸
部屋の書棚に残してある、ボクの“映画ノート”を見直していると、1993年になって、映画館で観た洋画はほんとに僅かだ。邦画は一作もメモにない。観たいものがなかったんだろう。バブル経済がはじけた後、時代そのものに活力がなくなり、映画人たちも破天荒でわくわくする物語を創り出すパワーやセンスを喪失していたようだ。ボクも映画らしい映画を作れていなかった。製作会社「にっかつ」も事実上、倒産した。だが、低迷する興行界に挑戦するように、アメリカのワーナー映画が日本の大量販店と手を組んだワーナーマイカル・シネマズというコンプレックス型映画館を神奈川県郊外にオープンしたのもこの年だ。総合スーパーの中に併設したスクリーンが7つもある、買い物のついでに映画を観るか、映画のついでに買い物するかの映画デパートだった。「それはないやろ。映画はついでか」と思うと悔しくて“映画館”とは呼びたくなかった。映画館は駅裏通りにあって、「今週はペキンパー監督の『わらの犬』(72年)と『ガルシアの首』(75年)の2本立てやで」と小声で呼びかけてくれる社会の隠れ家だった。ボクら映画屋が“小屋”と呼ぶ映画館があちこちで閉館していく中、「色々と品数は揃えてるから、ついでに観て帰ってよ」と言わんばかりの新型の見せ物小屋は好きになれなかった。その出来たてのシネコンを見分しに行ったのは覚えている。でも、何の映画をついでに観たのか、思い出せない。
93年は、先月号にも書いたが、C・イーストウッド監督の『許されざる者』みたいな、胸のつかえを吹き飛ばしてくれた作品以外ほとんど観ていない。メモを追うと、『逃亡者』(93年)のハリソン・フォードは相変わらず、とある。これは彼の演技がどれほど上達したのか見たかったわけではない。小学6年の時から3年間余り見ていたテレビドラマで、二枚目だが演技は今ひとつのデヴィット・ジャンセン主演の『逃亡者』(64年)が元ネタなので懐かしさも手伝ってのことだ。日本語版の冒頭のナレーションも忘れられない。「リチャード・キンブル。職業、医師。身に覚えの無い妻殺しの罪で死刑を宣告され、護送の途中、列車事故に遭って脱走した。孤独と絶望の逃亡が始まる。髪の色を変え、重労働に耐えながら、犯行現場から走り去った片腕の男を探し求める。彼は逃げる、今日もそして明日も…」と。この30年後の映画版は役名こそ変わらずだが、主人公がただ逃げるばかりでゲンナリだった。ハリソンは医師に見えず、相変わらず勢いでしか演技ができない俳優だなと思った。余談だが、彼が下積みの頃にチョイ役で出たフランシス・コッポラ監督の『カンバセーション…盗聴…』(74年)はあまり知られていないが、すこぶる面白い。盗聴仕事のプロが殺人事件に巻き込まれていく奇妙な話だ。コッポラが『ゴッドファーザー・PARTⅡ』(75年)の撮影前に低予算で作ったと聞いたが、都会人の孤独、不安をよく捉えていた。
この年の夏頃から、ボクはNHKのドキュメンタリー番組を演出することになる。撮りたい映画ネタが見つからない時だったし、人々の生きざまを取材するのも勉強になると思った。その人々とは戦後の邦画界を牽引してきた有名な先輩監督たちのことだった。局の制作部長に、「井筒さんが訊いてみたい先輩たちを何十人でも好きに選んで、各人がどんな経緯で映画会社に就職し、誰の現場で助監督をして、何の予告編を作って認められ、何の作品で監督デビューできたのか、彼らにじっくりインタビューして下さい」と言われた。そんな愉しい取材はこの機会を逃すと二度と出来ないと思い、引き受けた。番組進行役も監督の中から選び、大島渚と共に松竹ヌーヴェルバーグの旗手だった篠田正浩さんにお願いした。ご自宅に挨拶に伺うと、夫人の岩下志麻さんが作ってくれたおでんをご馳走になった。道頓堀の関東だきと違い、江戸の上品な味だった。
篠田さんの『心中天網島』(69年)は高校生の時に観ている。近松の人形浄瑠璃が原作だが、なんと場面に黒子まで登場するシュールな映画だ。岩下さんが熱演した。さて、戦後の大衆映画を担った先達たちはどんな映画を夢見ていたんだろう。それを尋ねて回るロケが始まるのだった。この話はまた次回に。
井筒 和幸
1952年奈良県生まれ。奈良県奈良高等学校在学中から映画製作を開始。8mm映画『オレたちに明日はない』、卒業後に16mm映画『戦争を知らんガキ』を製作。1981年『ガキ帝国』で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降、『みゆき』『二代目はクリスチャン』『犬死にせしもの』『宇宙の法則』『突然炎のごとく』『岸和田少年愚連隊』『のど自慢』『ゲロッパ!』『パッチギ!』など、様々な社会派エンターテイメント作品を作り続けている。映画『無頼』セルDVD発売中。