1月号
山芦屋は「建築博物館」の様相を呈した
山芦屋は弥生時代から開けていたといわれている。その頃は海岸線が今より内陸側で現在の鳴尾御影線あたりにあったと考えられている。当時は海から少し登った絶好の場所だった。芦屋の中で最も古い集落地でもあった。その後、海岸線が後退し、浜芦屋や東芦屋の集落ができ、西国街道沿いには打出の村塊が大きくなっていった。
集落としては弥生時代の遺跡が残る会下山から下り、そこが三条町になったと考えられている。山芦屋は三条町の里山になっていた。ところが大正時代になり阪急電車がその南側に開通すると、大阪の財界人たちがここに別荘やお屋敷を建てることになる。谷崎潤一郎著『細雪』に「櫛田医院」という医院が登場するが、そのモデルとなったのが「重信医院」で、阪急芦屋川駅の北側に今も残っている。
山芦屋の西側には三条の集落があったが、その周辺は緑が深い里山であった。この山景に目をとめたのが江戸時代に北前船で巨万の富を築いた右近権左衛門である。右近は船運業だけでなく、荷物に保険をかけることに着目する。後の日本海上保険(現・日本海上火災保険)を創業し、芦屋に本宅を構えた。
この右近家の隣に三和銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の創業者の一人、山口吉郎兵衛邸(現・滴翠美術館)がある。昔は今より敷地が広く、池のある庭園があった。建物は昭和8年(1933)建築で、設計は大阪ガスビルで有名な安井武雄。
中山悦治邸は建築家で初めて文化勲章を受章した村野藤吾の設計。昭和9年(1934)竣工で、建物は現存している。中山家は中山製鋼の創業家でもある。
そして松岡潤吉邸は昭和7年(1932)建築で、村野藤吾の師匠にあたる渡邊節の設計である。松岡家は神戸で汽船会社を営んでいた。松岡潤吉は元テニスプレーヤーの松岡修造の祖父にあたる人で、阪急電鉄を創業した小林一三の義弟にあたる。
その南にある渋谷義雄邸も現存している。大正7年(1918)建築、竹腰健造の設計。渋谷家は大阪で渋谷時計店を営み、日本で最初に自転車を輸入した。竹腰は住友財閥の建築家として有名で、住友の本社ビルの設計に携わっただけでなく、商売の才能もあった人で、アメリカでエレベーターや鋼材の買い付けも担当し、後に住友商事の社長になった。このように錚々たる顔ぶれが住まい、阪神間モダニズムを象徴する錚々たる建築家の建物が並ぶ、一種独特の場所でもあった。そんな山芦屋は、いわば「建築博物館」の様相を呈した。
山芦屋の建物は和洋館が主であったが、阪神間モダニズムの中でも、最もモダンであったことが特徴であった。もちろん建築物だけでなく、そこにモダナイズされた生活文化があったということも忘れてはならない。