11月号
山芦屋は「建築博物館」
芦屋洋館建築研究会
代表 福嶋 忠嗣さん
山芦屋から芽生えた近代文化(阪神間モダニズム)
山芦屋は弥生時代から開けていたといわれています。その頃は海岸線が今より内陸側で、現在の鳴尾御影線あたりだったようです。ですから当時は海から少し登った絶好の場所だったのです。芦屋の中で最も古い集落地だったのですね。その後、海岸線が後退し、浜芦屋や東芦屋の集落ができ、西国街道沿いには打出の村塊が大きくなっていったのでした。
集落としては弥生時代の遺跡が残る会下山から下り、そこが三条町になっていたのではないでしょうか。山芦屋は三条町の里山になっていたようです。ところが大正時代になり阪急電車がその南側を走り出すと、大阪のお金持ちたちがここに別荘やお屋敷を建てだしました。その象徴的の谷崎潤一郎著『細雪』に「櫛田医院」という医院が登場してきますが、そのモデルとなったのが「重信医院」で、阪急芦屋川駅の北側に今も残っています。
それ以前から芦屋川上流沿いには水車屋が多く、中でも助野さんのところは近代的でフロンティアでした。伸銅、つまり水車の動力で銅を伸ばし、電線などを作っていたようです。明治の終わり頃、芦屋川上流・芦有ドライブウェイのゲイト辺りに、電力供給を目的とした水路式ダムを地元の名士達が造っているんです。それにより電気が手に入りましたが、同時にその電力を送電する電線が必要になりました。その事業を一手に担っていた助野さんが一財を成したんです。
戦時中は戦用の金属供出のためお金持ちもみんな金属を出したのですけれど、助野さんは創建者、助野長次郎の銅像を出さずに今も残していますね。ということは出さなくていいほどの発言力があったのでしょう。軍部も電線の需要が多かったですから、電線を供給してもらうために取りはからったのかもしれませんね。
そんなことで、ある意味この地から近代産業が芽生えていったのです。
「領地」を築いた右近家
芦屋川とその支流の高座川の扇状地に陣取った
山芦屋の西側には三条の集落があり、その周辺は緑が濃い里山だったことは先の通りですが、その山景を目に留めたのが江戸時代に北前船で巨万の富を築いた右近権左衛門さんです。元は大阪と蝦夷地のちょうど中間に位置していた福井県の河野村(現在の南越前町)の出自で、右近家はこのあたりの海運を仕切っていたようです。右近さんがすごかったのは北前船の時代から単なる船運業だけじゃなくて、荷物に保険をかけるということに着目していたことです。明治になると船便の需要がなくなりますが、当時日本最大の経済都市だった大阪へ出て近代的な海運業に転ずるとともに日本海上保険(現在の日本海上火災保険)を創業、本社ビル(右近商事)を建て、芦屋に本宅を築くのです。それが小川洋子の小説『ミーナの行進』で登場する洋館にあたるのではないかと想定しています。右近邸は「領地」なんですよ。「お国」なんですよね。その広さは他のお屋敷と比べても際立って広大です。
今残っているのは2階建ての収蔵庫だけです。昭和初期くらいの建物だと思われています。右近さんは蒐集家としても知られていて、欧米との取引もやっていましたから、欧米の新進の絵描きの作品を買って、その絵をもとに取引もしていたようで、その作品などを保管していたのでしょう。鉄筋コンクリートの2階建てくらいの大きさの玉手箱で、その外にスイスシャレー、山小屋風の建物をマトリョーシカのように入子状にしているのですね。戦後、この建物は進駐軍の接収に遭って、GHQの将校と芦屋マダムの社交のダンスパーティーも催されていたみたいです。かつてはその収蔵庫に接して、その10倍くらいの広大な母屋、和館が併設されていました。
震災前まで残っていたのが、園庭を維持管理する庭師さんの作業小屋です。それも山小屋風なんですね。同じような2階建ての建物も残っていましたが、これはベンツなどが2台も入る車庫で、上が運転手さんの住まいだったようです。
さらに母屋から離れたところに別邸の洋館がありました。鉄筋コンクリートの2階建てで、屋根裏部屋もあり、そこがゲストハウスだったみたいです。1階には風呂場とか厨房のほか、20畳くらいの巨大な金庫もありました。
右近さんの故郷にも、同じような建物があります。北前船がなくなって河野村は衰退しますが、右近さんは村の山手に洋館と収蔵庫を合わせたような建物を大林組の施工で建てています。1階はスパニッシュスタイル、2階はスイスシャレーです。その工事で村に雇用が生まれ、今もなお右近さんは「偉人」として尊敬されています。
わが国の近代建築の聖地
前述の助野さんの邸宅は和風の民家でしたが、その前を先栽(せんざい)にして庭をつくっています。その園路中に一ツ葉葺きの亭(あずまや)があり、これは芦屋駅からやって来る来客用の人力車夫が客待ちしていたところでした。
水車業は阪神大水害で水路が埋まってしまい衰退してしまったようですが、それは森林破壊のせいだったのではないでしょうか。近代化により薪炭等の燃料が必要になり、六甲の山の木が採られ、それが原因で山津波が起きたのだと思います。助野さんのおばあちゃんは子どもの頃、水路に盥(たらい)を浮かべて遊んでいたそうですが、そこには鋳鉄製の太鼓橋が架かっていたそうです。それも水害で流されてしまいました。
右近家の隣に三和銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の創業者の一人、山口吉郎兵衛邸、いまの滴翠美術館があります。昔は今より広く、池のある庭園までありました。建物は昭和8年(1933)建築で、設計は大阪ガスビルで有名な安井武雄です。
中山悦治邸は建築家で初めて文化勲章を受章した村野藤吾の設計です。昭和9年(1934)竣工で、建物は現存しています。中山家は中山製鋼の創業家です。
そして松岡潤吉邸は昭和7年(1932)建築、村野藤吾の師匠にあたる渡邊節の設計です。松岡家は神戸で汽船会社を営んでいました。松岡潤吉は元テニスプレーヤーの松岡修造の祖父にあたる人で、阪急電鉄を創業した小林一三の義弟です。
その南にある渋谷義雄邸も現存しています。大正7年(1918)建築、竹腰健造の設計です。渋谷家は大阪で渋谷時計店を営み、日本で最初に自転車を輸入しました。竹腰は住友財閥の建築家として有名で、住友の本社ビルの設計に携わっただけでなく、商売の才能もあった人で、アメリカでエレベーターや鋼材の買い付けも担当し、後に住友商事の社長になりました。
このように錚々たる顔ぶれが住まい、阪神間モダニズムを象徴する錚々たる建築家の建物が並んでいました。一種独特の場所だったのですね。そんな山芦屋は「建築博物館」として知られ、建築界で知らない人はいませんよ。
山芦屋の建物は和洋館が主ですが、モダニズムでももっともモダンをいっているのが特徴です。もちろん建築物だけでなく、そこにモダナイズされた生活文化があったということも忘れてはなりません。
モダニズムから湧き出た泉
渋谷義雄邸には週末になると小磯良平や伊藤継郎がやって来て、ここでデッサンをしていたそうです。
そして邸の北側に、自家用の簡易水道がありました。その頃は三条村には自前の水道があったものの、芦屋は市営の水道がまだなかったのでそれぞれ井戸で汲んでいました。山芦屋の一帯は高座川と芦屋川が交差し、すごく水脈が豊かなんですね。1メートルほど掘れば地表水が滾々(こんこん)と湧き出てくるのです。
私が調べたところ、この簡易水道は1メートルほど地表を掘りさげて煉瓦積みで縁をつくったところ、その脇から水が湧き出てきたようです。落ち葉が入り込まないように小さな小屋掛けをし、鋼鉄配管で屋敷に引っ張ってきていたのですね。阪神大水害で埋まってしまったのですが、古代の古墳の羨道(せんどう=古墳の側壁)状の石垣を崩し湧水の道を閉ざしてはいけないので、鉄筋コンクリートで寝棺(ねかん)のようなもので覆っていて、それが今も残っています。
北隣の松岡邸の跡地を開発するときに、導入路のために簡易水道の石積み部分を法面に合わせてカットしなければならなくなりました。その際、私が芦屋市の関係部署に赴き、文化財的な意味で石垣と簡易水道を残すべきと訴え、石垣の一部とともに保存することになりました。いまこの水道は渋谷さん宅の散水用にしか使用していませんが、阪神・淡路大震災の際には近隣の人達の生活用水に活用されたため、この水道を残そうという意見も多かったのでしょう。
ゆくゆくはこの水道から配管をハイカーが通る道の脇まで引き、松岡邸に残っていた水鉢や井戸側に注水し、竜山石を敷石に再用して、親水空間にしようという計画です。松岡さんは茶人だったので、正月に初点前のための水を汲むための井戸側だったのですね。コンクリート製ですが、化粧人造石研ぎが施されています。市民のみなさんが手を洗ったりする場所として活用してもらうだけでなく、芦屋市外からやって来た新しい人達にも山芦屋の水資源の豊かさを知ってもらい、大事にしてもらえたらいいですね。
福嶋 忠嗣(ふくしま ただつぐ)
芦屋洋館建築研究会 代表
兵庫県ヘリテージマネージャー
1944年、芦屋市精道町に生まれる。神戸大学工学部建築学科卒業。
福嶋忠嗣建築設計室所長。芦屋洋館建築研究会主宰、芦屋の景観を考える会主宰