12月号
連載 憧憬の地、芦屋
肥沃な文化の土壌は美しい芦屋の風土から
山村サロン 山村 雅治さん
芦屋で芸術や文化が栄えた理由として、ひとつは関東大震災が挙げられます。震災後に東京の人たちがこちらに来た。文化人や芸術家も住まいを移しました。その代表が谷崎潤一郎です。思想家・政治学者の丸山眞男も、父が毎日新聞の記者で、震災で芦屋に越してきました。
そして、神戸という街が港町で国際的にも有名で、ロシア人が革命の時に逃れて神戸に来て、その近くで住むにはと美しい芦屋に来たのです。芦屋に来たのは音楽家が多く、音楽家の貴志康一の先生もいました。
芦屋ゆかりの画家といえば小出楢重ですが、彼は大阪の出身でフランスに留学し、帰国後芦屋に住むようになりましたが、「芦屋の風景はニースの風景に似ている」と自らの随筆に書いています。山が近くて、浜の方は松林。これは芦屋がまだ村であった時代に生きていた人たちが偉かったと思うのです。明治・大正時代、芦屋川はもっと広かったのですが、改修して川沿いに松を植えたのです。そして、国道2号線より上の方は桜が植わっています。桜と松は偉大な遺産です。
芦屋の芸術を語る上で欠かせないのが、吉原治良が結成した具体美術協会です。活動はダイナミックで、既成のものを打ち破るエネルギーが渦巻いていました。吉原は嶋本昭三や元永定正などの弟子たちに「誰も作ったことのないものを作れ」と教えていました。具体は海外の美術評論家(フランスのミシェル・タピエ)の目に留まり、芦屋から世界へと広まっていきました。
具体と並び芦屋を代表するのが、中山岩太とハナヤ勘兵衛を中心とする芦屋カメラクラブです。芸術写真は東京よりも芦屋が先で、作品も世界レベルです。
音楽では貴志康一ですね。甲南高校を中退しヨーロッパに渡り、ベルリンでカール・フレッシュにバイオリンを習い、現地でSPレコードを出しています。裕福な家庭でしかできなかったことでしょうね。帰国後も国内ではじめて暗譜指揮による「第九」を演奏するなど活躍しましたが、残念ながら28歳で亡くなりました。
芸術のみならず、前述の丸山眞男も、ノーベル化学賞の利根川進さんも芦屋に住んでいました。同じく野依良治さんもです。村上春樹さんも高校時代まで芦屋でした。いまNHKで放映されている朝ドラマで話題のコシノヒロコさんは現に住んでおられます。
文化人だけでなく財界人も多く居を構えていました。山口吉郎兵衛(山口財閥当主・滴翠美術館)はじめ、商売が大阪で芦屋に住むという方が多く、竹中工務店の竹中錬一会長も芦屋神社の近所に住んでいました。JR芦屋駅前のラポルテを建設する時、基礎固めの工事現場に普通の格好をしたお爺さんが来て、あちこち見ている。それで、昼前に竹中工務店の本社にラポルテの建設責任者が会長に呼び出されて、あそこがどうだと細かなだめ出しをしたそうです。そう、そのお爺さんが竹中錬一さんだったのです(笑)。自分の住んでいる芦屋で下手な仕事はできぬと、現場を熱心に見にいってたのです。僕の今住んでいる家が、昭和10年代の竹中錬一大工棟梁の設計施工ですので、どこか身近に感じますね。
白洲次郎も芦屋生まれですし、吉原治良もそうですが、時に芦屋からは時に型破りな人物が出てくるのですね。そういう新しいものを創り出すエネルギーの基盤は、芦屋の風土にあると思うのです。風通しが良いでしょ。そして見通しも良い。山と海があり、人間が完全に自由でいられる環境なのです。
阪神・淡路大震災で芦屋は瓦礫の山となりましたが、山と川、そして海があるこの風土が失われない限り必ず復興すると思いました。全市を公園のようにしたいという山中健市長の意見には賛成です。しかし、芦屋の発展には観光都市になることが必要です。人を集める音楽祭・演劇祭などの企画や、文化人もたくさんいますのでその活用も考えないといけません。
私の娘はいま東京で学生をしていますが、子どもを育てるなら芦屋がいいと言っています。それはやっぱり風土。眺める景色が他の街と違うし、川で遊んだり、山に登ってうり坊を見たり、海まで歩いて行けるし、都会にいながらそんなことができるなんてあり得ないのです。芦屋では四季に応じた自然の美しさを、ゆったりとしたリズム感で感じることができるのです。
山村 雅治(やまむら まさはる)
1952年芦屋生れ。神戸高校を経て法政大学英文学科卒。芦屋・山村サロン代表。活動は精神史家、詩人、作家、指揮者、役者、モデルなど多岐にわたる。1995年の震災を契機に小田実氏らと「被災者支援法」をつくるために「市民=議員立法」運動を展開。著書に「マリア・ユージナがいた」「宗教的人間」(リブロ社)、「自録・市民立法」(藤原書店)などがある。
山村サロン
芦屋市船戸町4-1-301
ラポルテ本館3階
TEL.0797-38-2585
http://www.y-salon.com