6月号
美が宿る建築に 彩られた夙川|連載 神様に愛された地、夙川 ⑤
大阪平野が六甲山系の山の端に出会う夙川から苦楽園・甲陽園にかけての山手は、西宮市の中でもひときわ風格のある邸宅街として羨望を集めている。開発の起源と建築から、街の魅力に迫ってみよう。
出発点はリゾート
そもそもこのあたりはかつて、緑生い茂る山里で、開発が進んだのは近代になってから。当初はその景色の良さと清らかな水や空気から、都市近郊の行楽地として拓けた。
明治41年(1907)、大阪・北浜の砂糖商人、香野蔵治が、櫨山慶次郎とともに現在の阪急夙川駅周辺の丘陵部に遊園地を開いた。両名の名の一字を採り「香櫨園」と命名された西宮初の沿線型開発地は、面積約10万坪で遊園地として関西最大の規模を誇った。大正2年(1913)に閉鎖された後にその敷地の大半は英国系商社、さらに大神中央土地へと受け継がれ、大正9年(1920)に阪急夙川駅が開設されたことも契機となって高級住宅地として注目を集め、なだらかな地形や松林を生かした土地に、富裕層や外国企業の幹部がここへ居を構えた。
苦楽園では明治39年(1906)頃に温泉が発見されたものの、当初は交通不便で経営がうまくいかなかった。しかし、大阪の実業家、中村伊三郎が明治43年(1910)、神戸から大阪へ戻る途中に車中の外国人が「この付近の景色は美しい。山の上に家を建てら良い眺めであろう」と話しているのを聞き、私財を投じて別荘地として開発。大正2年(1913)の調査で新たな泉源が発見され、その翌年に山開きをおこなった。大正8年(1919)には個人経営から西宮土地の経営となり、温泉や旅館の運営に資本が投下され保養地として賑わう。阪神沿線の夫人令嬢が集う社交場としての役割も担い、谷崎潤一郎や与謝野晶子など文人墨客も訪ねた。しかし、昭和13年(1938)の阪神大水害で泉源が枯渇、以降は郊外住宅地として歩んでいくこととなり、湯川秀樹や山口誓子など一流の人物がここに居を構えた。
甲陽園は大正7年(1918)に設立された甲陽土地により、住宅地とともに行楽地としても開発され、「東洋一の大公園」のキャッチフレーズのもと遊園地、劇場、旅館などのほか映画の撮影所まで設けられ、施設は多岐にわたっていた。
名建築は魅力ある土地から
リゾートとしてのポテンシャルをもつような素晴らしい宅地を手にしたら、それに見合った邸宅を構えたいと思うのは自然の人情。ゆえに西宮の山手は、美の宿る建築が彩ったのかもしれない。
夙川には旧居留地38番館や大丸心斎橋店で知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズの建築が多く建てられた。ヴォーリズは岡田山の神戸女学院、甲東園の関西学院など西宮と縁が深い。大正11年(1922)築のアメリカンボードミッション住宅はコロニアルスタイルを踏襲し、煙突の赤煉瓦が目を惹いたという。ナショナルシティバンクの社宅は支店長宅・副支店長、経理課、単身者用の4棟が、テニスコートを中心に配されていた。ほかにも阿部市太郎邸などがあったが現在は姿を消している。
ヴォーリズといえばスパニッシュミッションスタイルを得意としたが、関西建築界の父と評される武田吾一もまたスパニッシュと日本は相性が良いと考えた一人だ。その教え子の岡田孝男の建築がいまも夙川に残っている。旧山本家住宅は昭和13年(1938)築。上質の材をふんだんに使用し贅を凝らしている。岡田孝男は茶室研究でも知られ、その粋もまた意匠に生かされている。
その向かいに建つのは近代建築の巨匠、ル・コルビュジエの弟子である吉阪隆正の作品、浦太郎邸。スクエアを巧みに組み合わせたピロティー式で、機能性やカラーに師のエスプリが滲んでいる。縦横交互に積み上げた煉瓦が醸す個性的な外観デザインは、最近隣に建てられた保育園に受け継がれている。
甲陽園では目神山一帯に石井修の作品群が建つ。その数は自邸も含め約20軒。自然との一体を目指した住宅は、森に潜むように息づいている。
ニテコ池の畔には、300年後に日本建築の参考になるようにと、松下幸之助が当時の建築の粋を集結して昭和12年(1937)から3年がかりで建てた光雲荘があったが、これは現在枚方市へ移築されている。
行楽を楽しみたくなるような明媚の地の魅力は、生活の場所になっても色あせなかった。その環境と文化の肥沃な土壌は名建築を揺籃し、そして永遠にその価値を受け継いでいくだろう。