12月号
連載 Vol.8 六甲山の父|A.H.グルームの足跡
六甲山の別荘
明治初期の六甲山は、登山信仰のほかは氷や野草など得るくらいしか活用されておらず、乱伐で薪もろくに採れないようなはげ山だったことは幸田露伴の紀行文からもうかがえる。現在生い茂る緑は、神戸港への土砂流入を防ぐために1900年頃からはじまった砂防工事と並行しておこなわれた植林によるものだ。屏風のようにそそり立つこの荒れ山に愛情を抱く者は少なく、むしろ発展する神戸と北摂や丹波との交通を遮断する邪魔な存在と認識されていた。
アーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)は登山や狩猟を好み、生糸貿易のため横浜に滞在したころは静岡の山々へ出かけていたという。そんな彼は1889年、番頭の能登弥吉のすすめで三角帳場南西角、現在の東門筋の北端あたりに2階建ての和館を購入するが、六甲山へ関心を持つようになったのはその頃からのようで、一説では「マイコ」と名付けた猟犬を連れ六甲山で猟を楽しんだとされている。しかし、彼の末娘のりうの手記には「父が六甲でシューティングをしたのが開山の始まりだとよく記されていますが、六甲へはシューティングを止めてから登ったのです」とあり、むしろ狩猟で殺生をした贖罪の気持ちから、六甲山を拓き神戸の人々の役に立ちたいというのがモチベーションだったという。動機についてはほかに、横浜にいた頃「軽井沢の父」といわれているショー(Alexander Croft Shaw)の影響を受けたとか、宮内庁の箱根離宮(関東大震災で倒壊)を見て思い立ったという言説もあるが、これらは想像の範疇を出ないようだ。
いずれにせよグルームは友人で医師のトーニクラフト*(Thomas C. Thornicraft)に相談すると、彼は大頭だったそうだが石頭ではなかったようで、無謀とも思える六甲山の保養地化のアイデアに賛同、これを受け1895年、都賀村三ヶ村入会地の20年間の借地権を得た。その面積は約107町7反=約107ha、目的は「納涼遊園地敷地」と契約書にある。当時はまだ神戸における外国人の居住は雑居地に限られており、トラブル防止のためか借地人の名義はグルームの長男、宮崎亀二郎だった。
グルームはすぐさまここに別荘を建てたが、その仕事を依頼したのは灘・東明村の平吉という腕利きの大工で、いつもブツブツ言っていたので「ブッ平」とよばれていたとか。完成したコテージ風の建物は和洋折衷で、1911年時点では客室や湯殿、図書室まであったという。母屋から少し下ったところの三国池を庭にとり入れ、敷地内の雑草は丁寧に抜かれてつつじなどに彩られていたこの楽園は「101」とよばれて、その表示石は現存している。これはグルームの商館が居留地の101番にあったことにちなむと多くの資料に記されているが、当時の101番はドイツ系の商館であり、グルームが長年勤めたモーリヤン・ハイマン商会も101番に登記したことはないようで、その呼称の由来は謎だ。
ここに六甲山ではじめてのリゾート生活がスタート。それを愉しむグルームは神戸の外国人たちの羨望を集め、またグルームも大いに宣伝したため、それからわずか15年のうちに山上には56戸もの別荘が佇むようになり、六甲山はお邪魔山から憧れの山へと変貌していった。
*資料によっては「トニークラフト」「ソニクラフト」「ソルニクラフト」「サルニクラフト」などの表記もみられる