1月号
前衛芸術を育んだ芦屋の気風
甲南女子大学 文学部 メディア表現学科
教授 河﨑 晃 一 さん
明治末期から大正・昭和と花開いた阪神間モダニズム。
美術品の蒐集家として知られる山本發次郎氏の孫にあたる河﨑先生に、その軌跡をお聞きした。
阪神間に居を構えた大阪豪商の一人・山本發次郎
―邸宅文化の宝庫でもある阪神間で、芦屋の山本發次郎邸も立派なものだったのでしょうね。
河﨑 メリヤス業と整髪剤の製造販売事業を受け継いだ山本發次郎は大阪から、芦屋神社の南東辺り、大正時代半ば現在の東山町へ移り住みました。邸宅は竹腰健造設計によるものです。竹腰氏はイギリス留学後、住友総本店営繕課に入り、後に日本建設産業を興した建築家です。同じく竹腰氏の設計による渋谷義雄邸に一度お邪魔したことがありますが、似た感じがありましたね。
―河﨑先生の祖父にあたる發次郎氏は山本家の後継ぎだったのですね。
河﨑 祖父は、現在の岡山県美作の出身で、一人娘だった私の祖母の婿養子として山本家に入りました。阪神間の美術品収集家の中でも、白鶴の嘉納治兵衛、印象派を蒐集した三井家の和田久左衛門などもそうですが、当時は優秀な人材を婿養子にとり、事業を継がせるケースが多かったようです。
―河﨑先生が美術に興味をもたれたのは發次郎氏の影響ですか。
河﨑 完全に祖父のコレクションの影響です。その娘である私の母が、美術好きの血を最も受け継いでいたようで、その影響もあったと思います。
目に適ったものだけを蒐集する個性的な發次郎コレクション
―發次郎氏はいつ頃からコレクションを始めたのでしょうか。
河﨑 祖父は、学生時代に東京で一緒に暮らしていた絵が好きだった実兄の影響を強く受けたようです。庄屋の家の生まれですから、古いものに触れる機会もあったのでしょうね。事業にも余裕が出てきて、書に興味をもち始めたころに禅宗の僧侶と交流をもち、白隠、仙涯の墨跡コレクションを始めています。浮世絵、中国陶器などもありますが、大正11年(1922)頃に洋行してからはヨーロッパに影響され、西洋画にも興味を示すようになります。
―その一つが佐伯祐三コレクションですか。
河﨑 昭和7年(1932)から8年(1933)ごろ、額縁屋が持ち込んだ夭折の画家・佐伯祐三の絵に惚れ込んだようです。当時は既に故人でしたが、昭和10年ごろの東京での展覧会では最終日に全ての作品を買い取ったという逸話があります。昭和12年(1937)には東京で遺作展を主催し、自身のコレクションの中から105点を出展しています。最大で150点ほど蒐集した中の100点ほどは戦災で焼失しています。
―阪神間には何故数多くの美術品蒐集家がいたのでしょうか。
河﨑 大正から昭和にかけて、商都大阪の、ある程度豊かな事業主が阪神間に移り住むようになります。邸宅には茶室を設け、客人を招く際に茶道具や茶軸、古美術などが主人の好みや生き方までも主張するものだったのでしょう。茶の道からのつながりで美術品蒐集に入った方が多いのではないでしょうか。さらにいろいろな良いものを見る機会が多く、経済的にも余裕があり一つのステイタスになっていたのだと思います。
―發次郎コレクションの特徴は。
河﨑 祖父は芸術の個性を評価し、知名度に左右されず自身の目に適ったものだけを蒐集していました。客観的に見て、個性的なコレクションだと思います。
自由な雰囲気、豊かな財力が前衛的な芸術をも育む
―阪神間では前衛的な芸術も育っていきますが、その背景にあったものは。
河﨑 関東大震災の影響もあり、大正中期からは、東京から移り住み阪神間にモダニズムを持ち込んだ芸術家がいました。浅野孟府や岡本唐貴、続いて大阪から小出楢重、昭和に入ってからは、パリから帰り東京で活動していた写真家の中山岩太も山本發次郎夫人と縁があり、芦屋へ移り住んできました。
―阪神間でモダニズム美術が花開いた理由は。
河﨑 大阪を基盤とする実業家たちが邸宅を構えた阪神間には、自由な雰囲気があったのでしょうね。彼らは美術品蒐集だけにはおさまらず、武者小路実篤が主宰する「新しき村」を支援していた山本顧弥太がゴッホの「向日葵」を購入したり、のちに抽象画に影響を与えた上山二郎を株の仲買人だった曽根良吉が支援したり、小出楢重に呉服商の白井幸治郎が芦屋のアトリエを提供したりと、芸術家を支援することを惜しまない気風もあったのだと思います。東京だけでなく大阪からも芸術家たちが集まってきました。戦後、「具体美術協会」を率いることになる画家の吉原治良もその一人。実業家でもあった彼は、大阪から阪神間へと波及したモダニズムの申し子と言えます。
―吉原治良さんは自身も実業家だったのですか。
河﨑 今は画家として知られていますが、大阪淀屋橋で代々続く植物油問屋の次男として生まれ、社長としての才能と実績を持っていた実業家です。その上に画家であり、コレクターであり、自身の美術館を持ち、プロデュースもする。こんな多才な人物は世界中探しても他にはいません。
貴重なコレクションを後世へと継承していく
―個人のコレクションを公開している美術館などがあるのも、阪神間ならではですね。
河﨑 最も早く私財を公開したのが嘉納治兵衛で、昭和9年(1934)に竣工した住吉の「白鶴美術館」です。
朝日新聞社創業者の村山龍平の「香雪美術館」は昭和48年(1973)に御影に開館しています。山口銀行頭取として大阪財界で活躍した山口吉郎兵衛邸の「滴翠美術館」は、山口氏没後その遺志を継ぎ、山芦屋の邸宅を改装してコレクションが公開されました。弟の山口謙四郎コレクションも素晴らしいもので、こちらは天王寺の大阪市立美術館に収蔵されています。
―山本發次郎コレクションは大阪市の新美術館で公開される予定だそうですね。
河﨑 昭和58年(1983)、
600点近くのコレクションを大阪市に寄贈しました。これを機に始まった新美術館計画は、準備室立ち上げから26年といわれていますが、北区中之島、阪大病院跡地に2020年頃実現する予定です。私たちはもちろんですが、大阪の人たちにとっても念願の美術館です。
―貴重なコレクションが受け継がれていくのですね。楽しみです。本日はありがとうございました。
河﨑 晃一(かわさき こういち)
1952年、芦屋市生まれ。甲南大学経済学部卒業。
1989年、芦屋市立美術博物館の準備に加わり、1990年より学芸課長。2006年、兵庫県立美術館に移り館長補佐を務めた。その間、具体美術を中心に戦前戦後の阪神間モダニズムを調査し、監修、出版した。2013年より現職