7月号
御影郡家について MIKAGE GUNGE
例えば柔和な紳士の裏にドラマティックな人生があるように、
穏やかな郡家の街にも激動の歩みがある。そのヒストリーを紐解いてみよう。
先史時代から愛された地
緑豊かな六甲山の麓、南向き斜面の爽快な場所に位置し海もほど近い郡家とその周辺は、山海が幸を恵み水も清らかで豊かなところでもあり、太古から人々に暮らしの場所として選ばれていたようだ。
ゆえに、この一帯には遺跡が多い。郡家遺跡は縄文から中世にかけての複合遺跡で、範囲は現在の御影郡家とその周辺の南北1キロ、東西500メートル。ここに各時代の痕跡が眠っている。その一角、現在の御影中学校の敷地から縄文時代早期の縄文土器片が出土しただけでなく、住吉川を挟んで東の西岡本や北青木、本庄でも縄文時代の遺物が発見されていることからも、この頃からこの一帯が開けていたことがわかる。
郡家遺跡からは弥生時代の住居や墓の痕跡も見つかっており、水稲耕作がおこなわれていたものと推測されている。弥生時代後期の土器には生駒山西麓でつくられたものもあることから、交易もおこなわれていたようだ。また、現在の東灘区から灘区にかけてのエリアで銅鐸や銅戈が発見されており、金属器も使用していたとも考えられる。
農耕はやがて権力者が支配するという社会構造に結びついたが、この一帯も同じような動きがあったようだ。周辺には乙女塚に代表される古墳も散見される。郡家遺跡で見つかった古墳時代の竪穴式住居跡にはかまどの煙道の構造から朝鮮半島のオンドル(煙を利用した床暖房)との関連も指摘され、渡来人や大陸の文化との深い関わりが見え隠れしてロマンを感じる。同時期の遺物では鉄器、勾玉なども出土し、水田や祭祀の遺構もうかがえることから、稲作を基本とした生活が営まれていたと想像できるだろう。
「郡家」の名の由来
やがてこの地を支配していた権力者が大和政権に組み込まれ、701年の大宝律令により律令体制が整えられると、この一帯は摂津国莵原(うはら)郡となった。「郡家」という地名は、その莵原郡の役所、「郡衙(ぐんが)」が転じたものという説が有力だ。つまり、郡家は莵原郡の中心だったということになる。実際に近年の発掘調査では奈良時代を中心にした大規模な建物の跡が見つかり、これらの遺跡は郡衙そのものか郡衙に関係があると考えられている。
莵原郡とは兔原郡とも書き、だいたい現在の芦屋市から神戸市中央区にかけての範囲で、東は武庫郡、西は八部(やたべ)郡、北は六甲山で有馬郡に接していた。確かにうさぎが多くいそうな場所だったかもしれないが、その地名の由来はうさぎではなく、一説によれば南に広がる「海原」が転じて「莵原」になったという。莵原という地名は万葉集や伊勢物語にも登場、文学の舞台にもなっている。中でも莵原処女(うないおとめ)の悲恋の伝説は平安時代の『大和物語』や室町時代の謡曲『求塚』、さらには森鴎外や菊池寛の作品のモチーフとしても知られている。莵原処女は絶世の美女だったそうだが、古代にも「御影のお嬢様」がいたということだろうか。
莵原郡は大阪湾を介して和泉や紀伊と接し、都と太宰府を結ぶ山陽道(後の西国街道)が通過する交通の要衝でもある重要な地で、平安時代末期の人口は約1万6千人ほどだったとみられている。その頃の日本の人口は500万人くらいと推測されているので、その割合を現在に置き換えると、莵原郡は人口30~40万人くらいのスケール感になるだろう。つまり郡家は、結構な規模の地域のキャピタルだったのだ。
そんな郡家の鎮守、弓弦羽(ゆづるは)神社は、嘉祥2年(849)に創建され、熊野権現を祀っている。現在も安産祈願、厄除開運、戦勝祈願、交通安全、恋愛成就などにご利益があると崇敬を集めているが、昨今はフィギュアスケート界のプリンス、羽生結弦選手もその名にちなんでお詣りし、彼のファンたちに「聖地」として崇められている。
戦略上の要地でもあった
律令体制が崩壊した後、この一帯は荘園領となり、有力な社寺などに帰属するようになる。一方で前述の通り交通が良く、軍事的に重要な場所であったため、中世には時に戦に巻き込まれ、城郭も築かれた。赤松円心の家臣、平野忠勝の居城だった平野城(御影村城)は南北朝時代、現在の阪急御影駅の北西にあったと推測され、郡家の西に城ノ前という地名がバス停などに残っており、御影駅の北側には「神戸のヒストリアン」こと田辺眞人先生による解説が刻まれた城跡の石碑がある。この平野忠勝の菩提を弔うために、文安年間(1444~1449)に創建された夢境庵が忠勝の孫により永正2年(1505)、平野山忠勝寺と改められた。これが現在の御影郡家2丁目にある平等山中勝寺で、今も境内に平野家の墓所がある。
戦国時代になるとかつての荘園の単位で農民が結束して郷村を築き、郡家は郡家荘に属した。
やがて豊臣秀吉が天下を統一すると郡家村は豊臣家の直轄地となるが、徳川幕府が成立し大坂の陣で豊臣家が滅ぼされてからは幕府領を経て元和3年(1617)より幕末まで尼崎藩の支配下におさまった。天下太平の時代ではのどかな農村だったようで、稲作のほかにも綿、豆、野菜、ごま、たばこなどさまざまな農作物を生産していた。天明8年(1788)の記録によれば33世帯140名が暮らし、牛が14頭飼われ水車が2つあったという。
阪神間モダニズムの先駆けに
時代は明治維新を迎えても、この地には江戸時代と変わらず田畑が広がっていたようだが、廃藩置県により郡家村は兵庫県に属すようになり、さらに明治22年(1889)には御影・石屋・東明の各村と合併して御影町の一部となった。
明治7年(1874)、郡家の南端に官営鉄道(現在のJR東海道線)が通るようになり、東隣の住吉村に住吉駅が設置された。鉄道はその後しばらく経ってから阪神間が郊外住宅地として発展するその牽引役になる。
明治33年(1900)頃、朝日新聞の創設者の一人である村山龍平が郡家に数千坪の土地を取得したことを契機に、その後、洋館や和館が建てられ、自然豊かな環境での郊外生活が営まれた。それが嚆矢となり、明治38年(1905)には阪神電車が開業しより便利になったことも後押しして、この一帯は富裕層の郊外住宅地になっていく。さらに大正9年(1920)に阪神急行電鉄(現在の阪急)が開業して御影駅が設置されるとその動きは加速する。明治末期には住友家の総理事の鈴木馬左也と岩井商店(後の日商岩井・現在の双日)の創業者の岩井勝次郎も郡家に土地を求めたが、いずれもその規模は千坪を下らない広大なもので、豪壮な建築が建てられた。
そして大正10年(1921)、
西村伊作により郡家に西村建築事務所が開設され、モダンなデザインの住宅のほか、教会や教育施設などの建設にも関わるとともに、祝祭空間的な仕掛けづくりにも尽力した。西村は絵画、陶芸、生活改善、建築、教育など幅広い領域に造詣が深く、「文化生活」運動を推し進めたインテリで、与謝野鉄幹・晶子夫妻らとともに文化学院を創設した人物でもある。
工業の発展で公害が著しかった大阪から、空青く緑豊か、水清らかで温暖な阪神間の郊外住宅街へと富裕層が移り、ここで大阪船場の粋な文化と国際貿易港として世界に名を轟かせていた神戸のハイカラ文化が融合。東洋のマンチェスターとよばれた大阪と、東洋のウォール街とよばれた栄町を擁する神戸という経済的なバックボーンもあり、その間にある阪神間の中でも郡家とその周辺は「超」のつく富豪たちが豪邸を構え、豊饒なモダニズム文化の大きなコアとなった。ここにひとつの理想郷が実現したといっても過言ではないだろう。
戦争と震災を乗り越えて
しかし、戦争の足音が忍び寄り、その栄華も長くは続かなかった。昭和20年(1945)には空襲に遭い、郡家の南半分が甚大な被害を受け、幸せな生活の拠点だった郊外住宅も多く消失した。御影町おける昭和21年(1946)の人口は約1万人で、昭和15年(1940)の半分以下にまで落ち込んだという。
郡家が属する御影町とその周辺の村では戦前、合併して「甲南市」という新たな市をつくろうという構想あったが、御影村は神戸市との合併の方向に動いていた。そして戦後の昭和23年(1948)、御影町へ神戸市より申し入れがあり、昭和25年(1950)に御影・魚崎・住吉の3町村が神戸市と合併、東灘区が誕生し現在に至っている。
高度経済成長の時代になるとベッドタウンとして注目を集めるようになり、空き地や防空壕が住宅へと変わっていく。旧岩井勝次郎邸も2棟の4階建てのアパートへと変貌を遂げた。昭和40年代からは区画整理により道路が整備されて都市基盤も整っていき、かつての郊外住宅地の魅力を受け継ぎつつ、交通や生活に便利な点も評価され、住環境の良い住宅地として知られるようになっていく。一方で郡家地区自治会を中心にまちづくりにも熱心で、特に平成になってからは自治会活動が盛んになり、平成7年(1995)の阪神・淡路大震災を乗り越えて地域の絆は深まっていった。
平成20年になると住居表示が変更されて郡家地区は御影郡家1丁目・2丁目となる。それまでは都市部では珍しく、堂ノ前や垣内など歴史を感じさせる小字名が残っていた。
そして現在は住民たちと行政により街の景観が守られ、地区総面積の約15%が緑と水の空間という良好な環境の中、伝統を受け継ぐだんじりや村山邸の敷地の一角に開館した香雪美術館などに文化の薫りが漂い、人々の羨望を集めている。
参考資料 御影町役場偏『御影町誌』/続・御影町誌編纂委員会編『続・御影町誌』/田辺眞人『東灘歴史散歩』/神戸市教育委員会『郡家遺跡 御影中町地区第3時調査既報』/落合重信『神戸の歴史』/「阪神間モダニズム」展実行委員会編著『阪神間モダニズム』/竹村民郎『阪神間モダニズム再考』/平凡社地方資料センター編『兵庫県の地名』/「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典28兵庫県』 ほか