7月号
未来に向かって挑む眼/[インタビュー]すっとんきょうなことを(岡本 太郎)|神戸っ子アーカイブ Vol.4
未来に向かって挑む眼
岡本 太郎 (アーティスト)
撮影・後藤 孝
1978年『神戸っ子』10月号掲載
[インタビュー]すっとんきょうなことを
岡本 太郎
―先生は「成人式で決意した事は一生変えてはいけない」とよくいわれますが具体的にはどういうことですか?
自分を意識した時点から変わってはいけない、というのが僕の持論ですが、日本のモラルでいけないのは『心を入れかえる』ということ、これは一番いけない。一度心を入れかえると、また今度いつ入れかえるかわからない。つまり今いっていることがまた空手形になっちゃう。時代が変わるといつでもそれに便乗しちゃうことになる。それが自分では誠実なつもりでいるけどちっとも誠実じゃない。
いつになっても心を絶対入れかえないでそれを貫いていくと障害がある。が、それをのりこえ、のりこえていくと最初に人間が目覚めた悲劇というものが素晴しいものになる。
つまり目覚める前は人間はある意味で宇宙なんだ。自分が悲しい時は太陽も泣いている、郵便箱も泣いている、自分のうちにいる猫も犬も泣いているようにみえる。そのうち、自分だけが泣いているという時がきて、自分が宇宙だと思っていたのが、なんだ自分はこんな多勢いる中のこれっぽっちなんだということがわかってくる。その時の、その瞬間、自分が宇宙であるということと、宇宙でないと決意する瞬間、これを原始社会では成人式にしている。それは十二、三才ごろなんだが日本ではインチキなもんだから二十才で成人式にしてる。あれは法律上のことであって二十才というのはもう大人ですよ。個人差はあるけれども、本当は十二、三才が成人式です。
その時に決意した事を一生変えない、ということが大切なんだ。ところが、みんなこれを変えるんだな。それじゃあダメ。変えると自分がなくなっちゃう。その目覚める時つまり自分は宇宙じゃなくてこれっぽっちの存在であるということ、蟻一匹か、砂粒ぐらいの存在だということがわかってきた瞬間に自分を決意しないといけないんで、それが僕のいう成人式だ。その時決意した事はどんな悲劇的な目にあっても絶対変えてはいけない。それを貫き通すと、その人にとって素晴しい人生になる。
―関西及び関西人への期待について一言。
近畿というのはある意味で貿易業が中心ですね。するとここでは商業が盛んになってくる。商業というのは、商業によって儲ける素晴しさとイヤらしさの二重性格をもっている。
堺商人というのは豊かさとインテレクチュアル、つまり知的な操作とそれによる遊びの豊かさ、と同時にじかに身を賭かけているというせっぱつまった二重性がある。だからわび、さびといった茶道が始まったり東西文化の接点をうまく遊びに転化していくという素晴しさももっている。だから遊ぶこととか道楽とかには非常にたけているし、生活意欲はあるかもしれないけれども、根源的な自分というものを見失っている面もあるんじゃないかな。
堺商人の時代には今よりももっと危険をおかして商売していた。今は危険をおかさずに、伝統の上にあぐらをかいているという点がないこともない。だから関西は、生活がいい意味でも悪い意味でも趣味的になる可能性がある。
そこへいくと東京の方は官僚システムだから趣味もないし何もない。悪くいえば絶望的だ。関西に希望をもちたいんだけれども、ちょっとうわついた趣味性だけで自足しちゃっているきらいもある。
それは堺時代の伝統を守っていて、少しもそれをひっくり返そうとするエネルギーがないからかもしれない。しかも一番官僚的な政治的な中心を東京にとられてしまったから骨がない。そこに関西人の消極性もあるんじゃないだろうか。だからこのさい、人間的な形で東京にはできないことを関西人はやってやろうという気持をもってほしい。
大阪というのは実にすっとんきょうなことやってるんだな。常識から考えればバカバカしいことやってる。東京にいくと建物みても何をみてもカチーンとした実にお役所的なものしかない。だから大阪はここでこそいい意味のすっとんきょうなものをつくってほしい。
しかし、こちんこちんになってすっとんきょうなことやっても、これはちっともすっとんきょうじゃないですよ。やはり命をかけないと本当のすっとんきょうなことはできない。
僕の願いが一つかなったことは、太陽の塔をつくったことです。誰がどう思おうと構わないけれどもあんなものは絶対世界で誰にもできないですよ。後に残るから残らないかわからないが、あんなすっとんきょうなものはない。日本人のやることはみな西欧の二番手、三番手で、それに多少日本の奈良時代とか室町時代のニュアンスをつけてちょっと日本式にする、ということであって、かって日本にもヨーロッパにもどこにもなかったというようなものを誰もつくる気がない。
この関西という土地で、制約されない雰囲気の中で、もっともっといいことを、べらぼうなことを平気でやれるということをくり返してほしい。まず第一回を万博でやったから、これからもどんどんやってほしい。それがこれからの日本の文化をつくっていくことになるでしょう。
1971年『神戸っ子』10月号掲載