1月号
昔も今も変わらない、風格ある街並み「山芦屋」
阪神間を代表する高級住宅地、芦屋。
明治初期には田畑や山林が広がるのどかな風景が広がっていた。
やがて阪神・阪急電車の開通により、
芦屋は浜手から山手へと宅地化が進んでいくが、
山芦屋の場合は少し違っていた。
この地に住まいを求めた財界人たちは
広大な山林を購入して、自ら切り拓いていったのだ。
ゆえにその規模は壮大で、“領地”のような様相を呈した。
時をへて、街の様相は大きく変貌していくが、
風格ある街並みは変わらない。
茅渟の海を望みて 山芦屋について
芦屋の歴史を紐解くと、その根源を山芦屋とその周辺にみることができる。
この一帯には遺跡や古墳が多く、阪急電車より北の芦屋川右岸(西側)にはざっと10くらいある。中でも山芦屋遺跡では縄文時代早期からの土器が出土し、弥生時代の竪穴式住居跡も発見されている。また、その西にある会下山遺跡は弥生時代の高地性集落として全国的にも貴重で、国史跡にも指定されている。太古からこのあたりの中心地であるとともに、住むのにも絶好だったのかもしれない。
やがて江戸時代を迎えると、水車産業が発展する。特に江戸末期は大いに栄えたようだ。灘五郷という日本一の酒造地に近接していたこともあり精米が盛んで、照明に欠かせなかった菜種油の搾取とともに一大産業になっていった。 明治初期には田畑や山林が広がっていたこの一帯だが、やがて阪急電車の開業などにより開発されていく。芦屋はもともと海岸部から山手へと宅地化が進んでいったが、その多くが耕地整理や区画整備などの都市計画に基づくものであった一方、山芦屋の場合はちょっと様相が違ったようだ。というのも広大な山林を富裕層が購入、自ら切り拓いていったのだ。ゆえにその規模は壮大で、中でも右近権左衛門邸はひとつの丘を占める圧倒的なスケールだった。
ほかにも松岡潤吉邸、山口吉郎兵衛邸、中山悦治邸、渋谷義雄邸などのお屋敷が建ったが、それらはそれぞれ渡邊節、安井武雄、村野藤吾、竹腰健造と近代日本を代表する建築家の作品でもあり、山芦屋はまさに「建築博物館」だった。もちろん、そのような場所は日本でもここくらいだろう。
眼下に茅渟の海を望めば六甲の緑から涼風そよぎ、交通も至便。今も昔も変わらぬこの土地の価値は、これからも色褪せることがないだろう。