3月号
第十三回 兵庫ゆかりの伝説浮世絵
中右 瑛
ああ! 忠臣蔵、赤穂の大石内蔵助
播州海岸線一帯は、かつて入浜塩田が多く、山陽沿線の荒井、的形、大塩、福泊などは塩業が盛んであった。播州の西南端・赤穂も塩産地として名高い。今は塩田に大工場が建ち並び、昔日のおもかげはない。
正保年間(1644-47)、ときの赤穂藩主・浅野長直は塩政策を打ち出した。塩田開拓推進のため、荒井、的形、大塩らの浜人を呼び寄せ製塩法を学んだ。以来、赤穂藩の製塩技術は高揚し、塩経営が藩政を支えるほどに進展した。が、こともあろうに、この塩が浅野家の命取りとなったのである。
長直の三代目・長矩(ながのり)のとき、この製塩技術の機密をめぐって浅野家と三河の吉良家とが対立、ついに流血事件にまで発展してしまったのだ。世にいう“赤穂事件”、日本三大仇討ちで有名な“忠臣蔵”である。
事件は元禄14(1701)年3月14日に起こった。江戸城内・松ノ廊下で、播州赤穂城主・浅野内匠頭長矩が高家筆頭・吉良上野介義央(よしなか)に刃傷におよんだのだ。勅使江戸下向に際しての御馳走役(接待役)を命じられた内匠頭が、指南役の上野介に侮辱されたことから引き起こされたもの。遠因は塩にまつわる遺恨から、という説だが、それも定かでない。
この事件を知らせる第一便が赤穂に到着したのは3月19日の夜明け。この早便は江戸-赤穂百七十五里(680キロ)を、並みの旅なら15日かかるところを、たった4日余りで突っ走った。お家の一大事を知った城代家老・大石内蔵助は、まさに青天のへきれきであったろう。その後次々に悲報が入った。
第二便は、その日の夜半に到着、それには、内匠頭は即日切腹の沙汰、そればかりか五万三千石の所領は没収され浅野家は断絶、とあった。一方の上野介にはおとがめなし、という片手落ちの判決に、おさまらないのは内蔵助や家臣たち。憤ガイとド声は、赤穂城をゆさぶったのである。
筆頭家老で総責任者の内蔵助の苦渋は計り知れない。復讐か、殉死か、はたまたお家再興を願うのか、内蔵助はその選択を迫られたのだ。
大石内蔵助良雄は万治2(1659)年の生まれ。少年期は山鹿素行に兵法を、伊藤仁斎に儒学を学び英才教育を受けた。
大石家は、浅野長直が赤穂藩主に迎えられたときから家老職を務めてきた家柄。代々筆頭家老は大石家が継いできた。
延宝5(1677)年、内蔵助は家老になった。父の権内良昭が若死したので、祖父・良欽(よしたか)の後を継いだ。弱冠21歳のときだったという。
事件から3ヶ月余りすぎた6月末ごろ、内蔵助は赤穂を去った。去るにあたって、妻リクには離縁状を出し子とともにリクの実家・豊岡へ戻した。内蔵助にとって家族や家臣との離別や城明け渡しは痛恨の思いだった。城明け渡しのとき、
「追い腹を切ろう!」
と、いう者もいたが、
「お家再興を願うのが先決、もしならずんば…」
内蔵助は強い決意を心に秘していたのである。長男・主税を連れて京・山科へ。山科隠棲中は、ただ時を待つ内蔵助だった。
中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。
1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。