11月号
緑あふれる住宅地 夙川の起点となった香櫨園
夙川の流域では太古から人々が生活を営み、獅子ヶ口遺跡、神園古墳群、松園町遺跡、越木岩遺跡、越水山遺跡、王子ヶ丘古墳など数多くの遺跡にその痕跡をみることができる。
現在の夙川は阪急甲陽線の橋付近からまっすぐ南に流れ海に達しているが、古代は今より東へと流れていた。当時、現在の阪神西宮駅あたりは入り江であり、そこに注いでいたが、鎌倉時代に改修され、今の流路になったという。
江戸時代は山地に山林、谷沿いや平地に田畑が広がり、米のほか菜種や綿も栽培していたようで、河口付近では漁業も盛んだった。
そんなのどかな農村と里山が開発されるのは明治後期。大阪・北浜の砂糖商人、香野蔵治が、現在の阪急夙川駅付近一帯が景勝地として魅力あることに目を付けて、櫨山慶次郎とともに現在の殿山町・雲井町・霞町・羽衣町・相生町にまたがる丘陵部の山林や草地を取得、開拓し、香櫨園を明治41年(1907)にオープンした。その名は両氏の姓を一文字ずつ取って命名された。
関西最大の遊園地だった香櫨園は約10万坪の広大な敷地に動物園や植物園、音楽堂、ゑびすホテルなどを建設、内殿池(現在の片鉾池)にはウォーターシュートも開設した。模型飛行機大会や関西で最初の日米野球試合など多彩なイベントを開催。当時の最先端を行くレジャー施設だったのだ。阪神電車も香櫨園停留所を設け、香櫨園海水浴場も開設され、夙川沿い一帯は大いに賑わったそうだ。
しかし、少し時代を先取りしすぎたのか、大正2年(1913)になると香櫨園は閉鎖され、その大部分を外国商社のサミユル・サミユル商会が取得。外国人向け住宅地として開発を目論んだが第一次世界大戦の影響などで頓挫し、大正6年(1917)に大神中央土地の手に渡った。
大正9年(1920)に阪急が開業、夙川駅が開設され利便性がさらに高まったこの地で、大神中央土地は規模を拡大、約15万坪の住宅地を経営した。自然の地形や松林を生かした緑あふれる住宅地となり、GMなど外国企業の幹部もここの居を構えた。安井武雄が自ら設計した自邸やヴォーリズの作品のほか、パインクレストという短期滞在向けアパートも建てられた。
昭和12年(1937)には南北約4キロの夙川公園が完成。しかし戦争の時代となり、松並木は防空壕用などに切り倒され荒れ果てた。戦争が終わった昭和24年(1949)に桜の若木が植えられ、今や夙川は桜の名所として全国区になっている。