6月号

連載エッセイ/喫茶店の書斎から 121 「駑馬十駕」
子どもたちの、将棋を指す駒音を聞けなくなることは淋しいことではあるが、このほど子ども将棋教室講師を引退することにした。
年齢のこと(82才)もあるが、もう十分にやってきたという矜持もある。
初めは地域の将棋大会の審判をした時に、同時に子ども将棋教室を催したのだった。40年ほども昔のことだ。
その後、「用海将棋会」を結成し公民館を活動の拠点にした。
大人が中心の会だったが子どもを排除せず、その指導をわたしが担当した。最初は同じ部屋での活動だったが次第に増え、子どもの部を別室に移した。多い時には30人を超えて、うれしい反面、運営には少々苦労した。
そのうちあちこちから講師の声がかかり、西宮市からは「宮水ジュニア・将棋教室」の講師依頼を受けた。
「宮水ジュニア」というのは、西宮市の放課後事業として、20種ほどの講座が用意されており、それぞれの専門知識を持つ地域の人がボランティアで講師を務めるもの。子どもたちの異学年交流の場でもある。
将棋の場合はわたしがカリキュラムを作り、西宮市内各所の公民館に出かけて行った。指導した子どもは恐らく何千人。
時には井上慶太九段、淡路仁茂九段などのプロ棋士に協力を仰いだこともあった。井上九段からは「役立てて下さい」と棋書をたくさん、淡路九段からは子どもが喜ぶ将棋グッズを提供してもらったこともある。
また、我が家の隣の用海小学校将棋クラブには長年にわたり指導に通った。しかし、ある年度の担当教諭は、将棋が日本の伝統文化であるとの認識が全く無く、単なる遊びととらえており、意見が合わず身を引くことにした。わたしのことを、近所の爺さんが好きでやってきて、子どもと遊んでいるだけと思われたらしい。将棋文化を伝える難しさを感じたことだった。
ほかにもいろんな所で子ども将棋教室の講師をしていたが順次辞めてきて、最後まで残っていたのが「宮水ジュニア・将棋教室」だった。それをこのほど引退する決断をしたのだ。
思えば、わたしの人生の中の大きな柱の一つだった「子ども将棋指導」。単に技術を教えるだけではなく、将棋の歴史や礼儀作法などいろんなことを教えたものだった。時には文学的なことも。
エピソードがある。ある子どもが言ってくれた。
「学校で、尊敬する人をその理由と共に挙げるという授業の時に、○○君が今村さんのことを言ってましたよ」と。将棋以外のことも教えられたと発言したというのだ。
これにはびっくり。
講師冥利につきる出来事だった。
またこんな思い出もある。井上九段と一緒に指導した時のこと。
わたしがいつも子どもたちに言う言葉がある。
「将棋に負けるのはことのほか悔しいことやけど、決して恥ずかしいこととはちゃうからね」と。
それを聞いた九段は、わたしにこう言われた。
「あの言葉、いいですねえ。わたしも使わせてもらいますワ」と。
今回の決断をその井上九段に挨拶と共に経緯の手紙を出した。すると、その翌日のことだ。当の九段からレターパックが届いたのだ。わたしからの手紙はまだ届いていないはずなのに。何たる偶然!
開けてみると扇子が出てきた。
「将棋栄誉敢闘賞」受賞の記念扇子だ。
「駑馬十駕」(どばじゅうが)という言葉が書かれている。庶民的な人柄の九段とは思えない難しい言葉だ。こんな一面もあったのかと驚いた次第。詳しいことは省くが、「才能のない者でも、休まずにコツコツと努力を続ければ、やがて才能のある者に追いつくことができる」という意味の四文字熟語。
これは、わたしが尊敬する足立巻一先生が大切にしておられた本居宣長の言葉、「不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすればそれだけの功は有ル物也」に通じる言葉であり、この上ない喜びであった。
扇子の揮毫、いい字だなあと思って見ていてふと思い出した。九段はかつてわたしの仲介で、この欄のカット書を書いてくださっている六車明峰氏の書道教室に通われたことがあったのだ。
「駑馬十駕」。宣長の言葉と共に、今後も胸の中に大切に置いておこう。

(実寸タテ11㎝ × ヨコ16㎝)
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・代表者。「半どんの会」会員。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)、随筆集『湯気の向こうから』(私家版)ほか。












