11月号
阪神間モダニズムの一角を 形成した〝住吉〟
一般財団法人 住吉学園
理事長 竹田 統さん
六甲山頂から瀬戸内海の海岸まで南北に長い元住吉村は、大正・昭和にかけ高級住宅地として発展し、阪神間モダニズムの一角を形成してきた。半世紀以上にわたり街づくりの主体を担ってきた住吉学園の竹田理事長に、住吉の歴史と魅力についてお聞きした。
住吉川と共に発展してきた住吉村
上流で六甲山系の西谷と東谷の水が流れ込み、支流は芦屋を越えるほど長い住吉川は、1年通じて水流が途切れることがありません。下水が一切流れ込まないこの清流には今でも蛍が飛び、50種類以上の魚が生息し、ランニングコースや子どもたちの遊び場として親しまれています。
江戸中期から明治にかけて、豊富な水量を利用する水車が点在し、石材業と共に住吉村の産業を支えていました。約90カ所の大きな水車がそれぞれ20個以上の碾臼を回し、灘五郷酒蔵の精米工場を成していたのが水車小屋です。昭和42年(1967)に最後の水車小屋が火災で焼失してしまいましたが、重要な文化的財産である水車を後世にも伝えていこうと、規模は小さいながらも住吉学園前庭や山田区民会館横で復元しています。
住吉駅開業を機に高級住宅地へ
明治7年(1874)、鉄道敷設と同時に住吉駅(現在のJR住吉駅)が開業し、住吉村は高級住宅地へと発展していきます。大阪への交通の便が良く、眺望に恵まれ、神戸港へも近いという好条件に、明治37年(1904)には住友銀行初代支配人の田辺貞吉氏が住居を構え、住友吉左衛門氏を勧誘したのをはじめ、昭和初期にかけて日本生命社長の弘世助太郎氏、野村証券を築いた野村徳七氏、乾汽船社長の乾新兵衛氏等々、数多くの財界人たちが、観音林や反高林の数千坪を超える敷地に大豪邸を構えます。小磯良平画伯や音楽家の五十嵐喜芳氏など多くの文化人たちも好んで居を構え、名だたる財界人、著名人たちの社交場としても華やかな時代を迎えます。いずれも大正・昭和の阪神間モダニズムを代表する建築物でしたが、残念ながらほとんどが現存はしていません。
村有財産を村のために活用
昭和初めには〝国内一〟ともいわれる富豪村になった住吉村は独立独歩の気質が強く、何度か議論された近隣町村との構想にはあまり積極的ではなかったようです。豊かな財政を活用し、幼稚園から病院まで地元の手でつくられた施設の中の一つ、私立睦実践女学校から経営すべてと山林約3ヘクタールを譲り受け昭和19年 (1944)、住吉学園が設立されました。さらに戦後、村有財産の大半である約338ヘクタールを移譲されたのが、村有財産を村のために活用する役割を担うことになる始まりです。その後、昭和25年(1950)に神戸市と合併し東灘区の一部を構成することになりました。
地域社会の健全な興隆発展に寄与
住吉学園は、奨学金制度をはじめ各種学校への寄付・補助、100回を超えた敬老会「尚歯会」など各種団体や住吉9地区の自治活動に対する助成など様々な活動を通じて地域の暮らしを支援しています。近年は神戸市との協力の下、東灘図書館や住吉だんじり資料館の新設、保育園の開設運営などにも取り組んでいます。
平成25年(2013)4月1日に一般財団法人として新たなスタートを切った住吉学園は、設立当初からの「教育・文化・福祉の振興とコミュニティ活動の向上を図り、地域社会の健全な興隆発展に寄与する」という目的を変わらず担い続けていけるよう努めてまいります。
竹田 統(たけだ おさむ)
1954年生まれ。近畿大学理工学部土木工学科を卒業後、竹田設備工業所入社。1993年に退社の後、同年に株式会社タケダ工業所入社。1998年より、財団法人住吉学園理事、専務理事を経て、2015年6月、理事長に就任。現在に至る