2015年
11月号
11月号
日本経済を動かした、地域コミュニティ「観音林倶楽部」
明治38年(1905)、閑静な田園地帯であった御影の住吉村に阪神電鉄が開通し、住吉駅と呉駅が置かれた。明治40年(1907)頃、後に日本住宅株式会社の社長となる阿部元太郎が、観音林に本格的な宅地開発を開始した。観音林・反高林一帯の1万坪あまりの山林を住吉村から借り受け、住宅地として上下水道を完備させ、井戸も整備したのだった。以降、ここには財界人が次々と家族を連れて移住し、住吉周辺は高級郊外住宅地として発展していくことになる。
移住に続き、住人たちは子弟たちの教育施設の充実を図るようになった。住吉村・反高林の村有林を借り受けて幼稚園や学校を設立し、さらに地域住民の交流やまちづくりを考える場所として、明治45年(1912)に「観音林倶楽部」という社交コミュニティと会館を設立した。観音林倶楽部は、日本初の地域コミュニティといわれる。
会員たちは、住吉の地に学校や病院、購買組合を続々と生み出していったが、その建設費や運営費は、会員それぞれの資産と会費によって賄われていた。観音林倶楽部は、地域づくりを円滑に進めるための人間関係構築の場、地域住民の親睦の場として機能したのである。講演会や座談会、囲碁や将棋などの娯楽活動のほか、正月の名刺交換会では日本屈指の富裕な経済人が名を連ね、この倶楽部を中心に日本経済が動くともいわれた。
観音林倶楽部は22年間の活動の後に解消し、会館は財団法人住吉学園に無償で譲渡されている。