11月号
第二十一回 兵庫ゆかりの伝説浮世絵
中右 瑛
山中鹿之助「願わくば我に七難八苦」 三日月に祈る
山中鹿之助幸盛(- しかのすけゆきもり・正しくは鹿助)は安土桃山時代の戦国大名・尼子家の十勇士の筆頭の武将である。尼子家再興の為「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った。尼子家再興のためには困難をも苦にせず立ち向かうという強い意志を貫いた名言として、世に名高い。戦前の教科書に教訓として紹介されている。
鹿之助は、天文14年(1545)8月15日、月山富田城の麓・新宮谷(島根県安来村)で生まれた。父・山中満幸は尼子晴久の家老であるが若くして死亡。家督は兄・山中幸高が継ぐ。尼子家は因幡・山陰・中国地方に一大勢力を築いた大名だが毛利元就との勢力争いで失敗、衰退の一途を辿った。鹿之助が生まれたときは周防山口の大名・大内義隆を撃退したり因幡伯耆を攻略するなど勢力回復の兆しも見え始めていた。
兄も早死し、三日月の前立てと鹿の角の脇立てのある家伝の冑(かぶと)を遺贈された。
鹿之助は幼少より武力と知略に優れ弓、馬、軍法に励み、正義感の美少年だったという。16歳の時、尼子義久に従って山名氏の居城・伯耆尾高城の攻略など、休む間もなく攻防戦は続き、さまざまな武勲を挙げた。初陣である伯耆尾高城合戦では、豪傑として名高い菊池音八を一騎打ちで仕留め、若輩者の鹿之助の名を轟かせたという。家伝の冑を着装した立姿は威風堂々で美しく頼もしい。
永禄10年(1567)、月山富田城の合戦で受けた傷の治療のために有馬温泉で湯治したという。
尼子家筆頭家老・亀井秀綱の娘・千明と結婚。元亀2年(1571)、長男・幸元が誕生する。
中国、山陰地方の制覇は強敵が多く至難の業だった。中でも毛利元就には絶えず脅かされ、権力争いは続いた。
織田信長の命令を受けた羽柴秀吉が播磨・上月城へ進軍を開始すると、尼子再興軍も竹中半兵衛、黒田官兵衛らとともに上月景貞の居城・播磨上月城(兵庫県佐用郡佐用町)の攻略に勝った。
秀吉は尼子勝久、山中鹿之助らの主従に上月城を与え、尼子勢は備前、美作、播磨を守備した。上月城を与えられ念願の尼子家再興を成し遂げたのである。
しかし、織田信長の援軍で再興を果たしたのも束の間だった。鹿之助にとっては最後の戦いが始まったのだ。
天正6年(1578)2月、三木の別所長治が信長に反旗を翻したがために、毛利軍の大軍に包囲され上月城は敗北した。尼子一族はことごとく切腹、鹿之助は自害したと思われたが、毛利方に捕らえられ、安芸に移送される途中に謀殺された。鹿之助34歳の激動の人生は幕を閉じた。
尼子家再興のため、多くの闘いに参戦し、敵の武将66人以上の首を挙げた猛将であり、最後まで尼子家再興を願った忠義心の武将であったが、悲運の名将でもあった。
その子・山中幸元(鴻池新六)は山中家の本家に当たる別所長治の家臣・黒田幸隆に預けられたが、別所氏も滅亡し、9歳で放浪の身となるが大叔父である山中信直を頼って伊丹に行き、武士をやめて、酒造業を始めた。日本で初めての清酒を本格的に開発し、材をなし、後大坂に移り、江戸時代における「日本最大の財閥」の始祖となった。大坂では両替商を開始したのが、三和銀行の元となり、現在、三菱UFJグループの一員となっている。
中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。