12月号
兵庫ゆかりの伝説浮世絵 第三十四回
中右 瑛
白川村の猟師・鷲尾三郎の出世ロマン
一の谷合戦の序盤戦ともいえる「三草山合戦」(1184)は、源義経が夜中、平資盛軍に攻撃をかけ、不意をつかれた平家軍は狼狽し、周辺の民家は火攻めにあい、平家軍や村人たちの犠牲者は多く壮絶を極めた。総隊長の平資盛らは西方に逃げ散ってしまった。
「三草山合戦」で勝利を収めた義経軍は、一の谷目指して南下してきた。ところが、鵯越越えから白川のあたりで道に迷った。
戸惑う義経軍の前に現われたのが地元・白川村の猟師・鷲尾三郎である。彼は、名だたる武将に仕えて立身出世を夢見ていた若者だ。鷲尾三郎にとってまさに千載一遇のチャンスである。かねてより周辺山地の道のりを熟知していた彼は、まだ明けやらぬ暗闇の中、義経一行を一の谷に案内した。
寿永三年二月八日未明。まさに「鵯越えの逆落とし」と言われた「一の谷合戦」の奇襲攻撃の直前である。「一の谷合戦」を義経軍の勝利に導いたのは、この青年・鷲尾三郎の功績が大きい。報奨として義経の一字を拝名し、以降「鷲尾三郎義久」と称した。
その後、義経は兄頼朝と不仲となり、弁慶や鷲尾三郎義久らは義経に従い奥州へ逃れた。しかし、「衣川の戦い」(1189)で主君義経と命運を共にしたと伝う。共に文治五年(1189)五月十七日没。鷲尾三郎義久の墓は、丹波篠山城址の北方、大売神社の近くにあり、今は供養塔が建立されている。
この図は、義経、弁慶ら一行が山中に迷い、熊を退治する強力の鷲尾三郎(中央)と出会った時のさまが描かれている。絵師は武者絵で名高い歌川国芳である。
一介の若者が、偶然にも名将に仕え、のちのちは義経十傑とまで出世する。鷲尾三郎の思いもよらぬ夢のような出世物語。そこには、激動に生きる武士のロマンが躍動し、運命的で不思議な人と人との出会いを力説している。そういうロマンに人々は憧れ、夢を燃やした。
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。