7月号
聴く人を魅了する〝森本ケンタの世界〟|音楽の似合う街、神戸
guitarist
森本 ケンタ さん
神戸で生まれ、広島を拠点に活動してきた森本ケンタさん。
現在は東京にも拠点を置き、フラメンコギターで活躍の場を広げています。
神戸を飛び出したときのこと、大好きな歌のこと、ギターのことなどお聞きしました。
―音楽との出会いは?
小学生のときから習い始めて中学2年生まで続けたバイオリンです。もともと歌が好きで、弾きながら歌いたいと思ったけれどバイオリンでは難しくて、フォークソング世代の母が弾いていたので身近にあったギターを弾くようになり、すっかりハマってしまいました。歌い始めると曲を作りたくなり、当時は尾崎豊に憧れて作り始めたけれど、言いたいことがたくさんあり過ぎて、くら~くて、何が言いたいのかさっぱり分からない歌ばかり(笑)。高校生になってからはストリートライブを始めました。
―まだその頃は神戸だったのですね。なぜ、広島へ?
理由は、「そんな甘ったれた気持ちでストリートライブやっていても、なんにもならない」という母の一言。「はあ?出ていったるわ!」と(笑)。18歳の夏、もう運転免許は取っていたので車に乗って、歌って稼ぎながら西へ向かいました。神戸ではもうストリートライブの稼ぎのほうがバイトの稼ぎよりよくなって、ちょっと天狗になっている自分がいたのは確かです。母はそこを突いてきたのだと思います。
―辿り着いたのが広島だった?
鹿児島を目指していたのですが、広島でお金が全部なくなり、お腹ぺこぺこ。どうしたら自分の歌に振り向いてくれるのかをすごく考え、歌で生きていくことの難しさを思い知らされました。そして、ちょっとしたコツを掴んだとき、人が集まり始め、「部屋空いているから使っていいよ」と言っていただいて、次第に協力してくださる方も集まってきてくれました。そして神戸と広島を行ったり来たりしながら高校を卒業し、広島を拠点に活動を始めました。
―東京へ出たのは?
10年目です。家を飛び出した時のことを思い出しました。飛び込んで何とかしよう…無茶だけど、あの時みたいな気持ちで挑戦してみようと。そこでまた新しい出会いがあり、つながりが生まれました。
―シンガー・ソングライターからギタリストに転向したのはなぜ?
喉に問題があり、キーを下げながら歌い続け、実はここ4、5年、つらい状態でした。楽しかったはずの歌がストレスになり始めていました。
―今後はギタリストとして活動していく?
一旦、大好きな歌を趣味に戻してあげて、キーを下げた状態でステージでもちゃんと歌えるようになったら、その時はぜひ復活させたいと思っています。今はギターが楽しくて、楽しくて…休みの日でも、一日中ずっとスタジオにこもってギターを弾いていることもあります。
―フラメンコギターということですが、それはなぜ?
『ロミオ』という曲を作った23歳のころ、「何かが足りない」と感じ、何が必要なのか探していました。見つけたのがフラメンコギターでした。アコースティックギターと違い、とても柔らかな音が出るんです。それ以来、2つのギターを使ってきました。
―そしてギタリストとしてアルバムを出したのですね。
歌を休止し、ギターだけのCDを作りたいとお話ししたところ快諾いただき、一昨年、インストゥルメンタルアルバム『Julieta』を出させていただきました。
みんなとワイワイ言いながら作る現場が楽しくて、評価もいただいたことが今につながってきました。あの1枚がなければ、その時点でミュージシャンをやめていたかもしれません。
―フラメンコギターの音楽とは?
横でフラメンコを踊っているスペインのイメージをお持ちでしょうし、本来の演奏家から見れば、僕が弾くのはフラメンコギターではないかもれません。ちょっとメキシコ寄りの弾き方、フランスのジプシー・キングスにも似通ったところがあるかな。
―目指すのはそういう世界?
フラメンコギターとJ‐POPを融合させた音楽づくりをしてきましたが、ジャンルには縛られたくないと思っています。すごいなと思う身近にいるミュージシャンの音楽や技を見て学んだり、大好きで尊敬するジプシー・キングスやギタリストのビセンテ・アミーゴの音楽を聴いて研究したりはします。でも、僕は僕にしかできない音楽で森本ケンタの世界をつくりたいと思っています。現在は広島と東京に拠点を置いていますが、海外へも僕の音楽を持って行きたいと思っています。
―楽しみですね。でも、神戸のことも忘れないでください。
もちろんです。できるだけ機会を作って戻って来ます。まず今のところは、地元でライブをすると母がすごく喜んでくれますから。親孝行ができているかな(笑)。
―お母さんと一緒に神戸のファンも、これからの活躍に期待しています。
Profile
1985年、神戸市生まれ
小学生時はヴァイオリンでユースオーケストラに参加、中学2年生でギターと出会い、クラシックからポピュラーミュージックの世界へ移行。以後さまざまなアプローチで、枠にとらわれないライティングを行っている