7月号
好きなことをやって生き、みんなに愛された 父・小曽根実|音楽の似合う街、神戸
JAZZ Pianist 小曽根 真 / saxophonist 小曽根 啓
2月15日に亡くなったジャズピアニストでオルガニストの小曽根実さん。
同じ音楽の道を歩む二人の息子さんと立つステージ「KOBE JAZZ FESTIVAL」(会場/神戸国際会館こくさいホール)を毎年楽しみにしておられたそうです。
ミュージシャンとして、また父親としての実さんについて、真さんと啓さんにお話しいただきました。
楽しみにしていた親子の共演
―今年はお父様のいないステージになってしまいましたね。
真 毎年、「小曽根実追悼にならんでよかったなあ」などと冗談を言っていたのですが、とうとう卒業していってしまいました。親父にとってこのコンサートは生きがいでした。ミュージシャンは演奏しているときが一番のしあわせです。そのために啓が毎年、親父の傍でけんかもしながら企画をしてくれていました。
―今回の企画はお父様も知っておられたのですか。
真 中川喜弘・英二郎親子と小曽根親子の共演を啓が提案してくれて、親父も「いいアイデアだからやりたい」と言っていました。去年の秋ごろかな。
啓 兄は東京で共演した経験があったので、ぜひ神戸でも実現したいと話したところ、二つ返事で賛成してくれて、親父も楽しみにしていたと思います。
―どんな思いで今回のステージに臨まれたのですか。
真 特別な言葉にするようなものは何もないです。音楽そのものが物語を作ってくれるものですね。正直、お葬式でも告別式でも涙は出なかったのですが、父の曲が気持ちに寄り添ってくれたというのでしょうか、啓もそうだったようです。
啓 オープニングの演出で、「大丈夫かなあ、ちゃんと吹けるかなあ」と思いました。
真 親父独特の柔らかく甘いハモンドの音色で演奏した曲を前もって録音し、父の写真だけがあるステージで本人が演奏しているという設定で流し、そこへ長男である僕の演奏が入り、次男の啓がサクソフォンで入ってきてファミリーで、という演出。僕もウルウルしてしまいました。
初めて知った、父のジャズミュージシャンとしての挑戦
―啓さんは今回初めて知った曲もあったそうですね。
啓 「MAGOO」。親父がこんな曲を作っているとは驚きでした。デキシーやスイングは親父の本職。その先のビバップまでは足を踏み入れようとしていたことは知っていました。ところがこの曲はさらに新しいモードジャズであり、なおかつサビの部分にコード進行も取り入れている。こんな誰もやらないことに挑戦しようとしていたなんて…、親父にも探究心というものがあったんだなと。
真 父は「11PM」でテレビの人気者になってしまい、弾いている音楽はポップス。「小曽根実はジャズミュージシャンじゃない」と言われ、「勉強をする!」と突然テレビをやめて東京へ行きました。そのころに作った曲です。彼は彼なりに悔しさや葛藤があったのだと思います。親父の曲づくりは難しく考えたりしません。だからメロディーが美しくて、心にズンと響きます。でもこの曲に限っては、考えに考えて書いたのだと分かります。
―ミュージシャンとしてのお父様に自分が似ているなと思うことはありますか。
真 周りの人からよく言われますが、どうなのでしょう。啓はどう?
啓 3人はそれぞれに個性が全然違います。でもベースにある部分、例えばメロディーを大切にすることなど、そこでは共通していると思います。
子どものようにピュアだった父。家族は大変?
―父親としての小曽根実さんは?
真 父親というより友達みたいな関係でしたね。一番子どもっぽくて、ピュアなのが親父だったかもしれません。ピュア過ぎて、びっくりすることの連続で家族は大変でしたけれどね(笑)。父が還暦を過ぎてから、付き合えと言われて一緒にゴルフをしたりお酒を飲んだりして、ちょっと距離が近くなりました。そこで、もっと人生や音楽にきちんと向き合わなくてはいけないと何度も話をしましたし、けんかもしました。啓は一緒によく釣りに行っていたね。
啓 夜釣りによく行きました。あるとき、明け方にふと見ると、いつもはポマードで決めている父の髪の毛が白くなっていて、老いを感じたことを覚えています。
―子どものころ、お父様と一緒に遊んだという思い出は?
真 忙しくてあまり家にいないという印象しかないかな。
啓 兄貴も忙しくてあまりいなかったし、家にいたのは僕だけ(笑)。
真 彼は高校に入ってから音楽を始め、吹奏楽部をビッグバンドに変えて、翌年には神戸市のジャズコンクールで準優勝してしまうんですから、すごいですよ。
啓 その時演奏したのは、兄が作ってバークリーから送ってくれた曲です。ちょっとズルしました(笑)。
真 曲を作り始めたころで、初めて書いたビッグバンドの曲でした。結構難しい曲だったのに、それで準優勝してくれて、僕としてもとても嬉しかったですよ。
親父の息子でよかった
―兄弟とても仲良しですね。
真 生き方も考え方も違いますが、お互いにリスペクトしていると感じます。理解し合える年齢になったのかな、アプローチは全然違うのに、多分こうくるだろう、こう言うだろうと、何となく分かってしまいます。
啓 兄貴はジャズもクラシックもやって、ビッグバンドもやってたくさんの人をまとめているのだから大変だろうなあ、すごい人です。
真 啓はずっと親父の傍で深い愛情をもって接してくれていました。本当に感謝しています。
啓 愛情の深さは兄貴も一緒だと思います。いつも気を遣って「任せっきりで悪いな」と言ってくれますが、しょうがないでしょう、世界の小曽根真を兄にもってしまったのですから(笑)。
真 すまんな、ありがとう!!(笑)。
―小曽根実83年の人生を、今どんなふうに思っておられますか。
啓 お通夜で遺影を見ながら兄がボソッと「幸せな人生だったんかなあ」と。僕は「そうだったんとちゃうか」と答えました。とにかく自分の好きなことをやりましたからね。神戸で好きなことやった人を挙げたら5本の指に入るでしょうね。その中の2、3人はうちの一族かな。
真 亡くなってから、本当にみんなに愛された人だったんだなあと感じました。「あんなことあったなあ」「こんなことあったなあ」と楽しそうに話してくれます。僕はそんな親父の息子でよかったと思っています。
小曽根 真 (右)
1961年生まれ。1983年バークリー音楽大学ジャズ作・編曲科を首席で卒業。同年米CBSと日本人初のレコード専属契約を結び、アルバム「OZONE」で全世界デビュー。ソロ・ライブをはじめ、世界的なトッププレイヤーとの共演や自身のビッグ・バンドを率いてのツアーなど、ジャズの最前線で活躍。2018 年 紫綬褒章 受章
小曽根 啓 (左)
1964年生まれ。高校時代よりSaxを始め、1982年ボストン バークリー音楽院に留学。帰国後、BLUE NOTEツアー参加をはじめ兄との共演多数、現在は神戸を中心にLIVEを行っている。また多くの門下生を指導、海外に送り出している