5月号
連載 神戸秘話 ⑰ 中国文学の最高権威者 吉川幸次郎「文学と人生」
文・瀬戸本 淳 (建築家)
いまを遡ること54年前の5月4日、高校2年生の僕は神戸国際会館にいた。この日は県立神戸高等学校創立68周年の記念講演があり、壇上には吉川幸次郎先生が立っていた。当時は17歳、残念ながらどんな話だったかほとんど覚えていない。しかし、いくつもの星霜を経たいま、あの時の講演内容を知りたくなってきた。そこで、神戸高校の教師を長年勤め、現在は校史の編纂に情熱を傾けている同級生の永田實先生に訊ねてみたところ、朝日選書の『吉川幸次郎講演集』の最終章にあるよと教えてくれた。さすがは永田先生。記憶力が抜群で、神戸高校の歴史の生き字引だ。この神戸秘話シリーズも彼のアドバイスなくして成り立たない。
「世の中にはいろんな生き方があるが、どの生き方も、なにがしの価値をもつというふうに考えるということは、いいかえれば寛容の精神であります。そうした精神は、おそらく哲学の本だけでは不十分で、文学の本をお読みになることによって得られましょう。そうしてそのかたご自身の人生、あるいはそのご家族の人生、あるいはその営業体その他共同体の生き方、あるいはもっと広い範囲では社会に、幸福をもたらすように思います」。54年ぶりに出会った講演内容は、人生の使命を示す素晴らしいものだった。文学研究に生涯を捧げた先生の言葉は心に響く。
ところで、吉川先生はなぜ中国文学に傾倒していったのだろうか。そのヒントは生い立ちにあるのではないかと思う。
吉川幸次郎先生は明治37年(1904)、神戸で貿易商の子として生まれた。今でこそその面影はないが、当時は花街だった花隈に住まいがあり、竹馬の友で神戸一中(後の神戸高校)の同級生でもあった文化庁長官、今日出海氏は、吉川宅を訪ねるたび「目のやり場に困るくらい、芸者の行列を見ていなければならなかった」と回想している。神戸という開けた街の「別世界」のような場所で育った吉川少年には、もともと国境なんてなかったのかもしれない。
吉川少年は勉学こそ優秀だったが運動が苦手な〝文弱〟で、小学校時代は「シナ人」というあだ名で呼ばれていたという。当時は中国人を見下していた時代、差別的ニュアンスが滲む。しかし、なぜシナ人ではいけないのか?という疑問を抱いたのだろうか、いつしか中国に興味を抱くようになり、中学時代に『史記国字解』を読破したという。神戸一中に進学後は『水滸伝』『西遊記』『三国志』などの訳書に触れ、第三高等学校(京大総合人間学部の前身)へ進むと中国語を学び、京都帝国大学では中国語学や中国古典文学も研究、中国を旅し、芥川龍之介や佐藤春夫の影響もあり、ますます中国へ傾くようになる。卒業論文を漢文で書き大学院に進学、唐詩の研究に明け暮れた。
昭和3年(1928)から3年ほど北京に留学、帰国後は中国を知るためにと論文を中国語で書いただけでなく、中国語で会話し中国服を着て日常を過ごしたという。戦後は京大教授に就任。中国文学研究の第一線で活躍し世界的にも評価され、昭和44年(1969)には文化功労者にもなっている。
京大退官後は自らを「町の儒者」と名乗っていたように、吉川先生が特に敬愛したのは孔子だった。その話は次回に。
※敬称略
※朝日選書『吉川幸次郎講演集』、神戸高校同窓会会誌、文春写真館ホームページなどを参考にしました。
吉川 幸次郎(よしかわ こうじろう)
中国文学者
字(あざな)は善之。1904年、神戸で貿易商の子として生まれる。神戸一中(後の兵庫県立神戸高等高校)に在学中、『水滸伝』『西遊記』『三国志』などの訳書に触れる。第三高等学校(後の京大総合人間学部)へ進学後は中国語を学び、京都帝国大学では中国語学や中国古典文学を研究。中国江南を旅し、大学院に進学後は唐詩の研究に明け暮れた。1928年より北京に留学、北京大学で清朝考証学を学ぶ。帰国後は論文を中国語で書き、中国語で会話し、中国服を着て日常を過ごした。1947年、京大教授に就任。日本での中国文学研究の第一線で活躍し、1969年には文化功労者にもなっている。1980年に76歳で逝去。著作に「杜甫私記」(単著)、「論語」(訳書)、「新唐詩選」(共著)ほか多数
瀬戸本 淳(せともと じゅん)
株式会社瀬戸本淳建築研究室 代表取締役
1947年、神戸生まれ。一級建築士・APECアーキテクト。神戸大学工学部建築学科卒業後、1977年に瀬戸本淳建築研究室を開設。以来、住まいを中心に、世良美術館・月光園鴻朧館など、様々な建築を手がけている。神戸市建築文化賞、兵庫県さわやか街づくり賞、神戸市文化活動功労賞、兵庫県まちづくり功労表彰、姫路市都市景観賞、西宮市都市景観賞、国土交通大臣表彰などを受賞