5月号
神戸の社会に尽くしたサムライ紳士 平生 釟三郎|今も神戸に生きる 平生釟三郎の精神
実業家として名を馳せただけでなく、数々の社会事業で世のため、人のため、そして神戸のために尽くした甲南学園創設者・平生釟三郎。
その生い立ちや神戸への貢献を振り返ってみよう。
名付け親は曽祖父
平生釟三郎はもともと美濃国加納藩の名門田中家の出だ。曽祖父の田中熊造は実に聡明な人物で家運が傾きつつあった田中家を再興したが、嫡子の要助は3歳の一人娘、松を残し28歳で亡くなってしまう。熊造は悲嘆の中、家を守るため松の婿を探すが、藩内には眼鏡に適う男子がいない。ところが松が17歳になった頃、そこに彗星のごとく現れた男がいた。
それは、高田村(現在の岐阜市)の庄屋、岩間専十郎の三男坊。専十郎は機略に富み、農民を守るためには領主へ反抗することも厭わない人物だったが、その影響もあったのだろうか、三男坊は武士に憧れて学問と武術を愛し、百姓仕事を嫌い、僧の弟子として同伴させられることになるとこれに反発、夜逃げして中山道を江戸に向かったものの取り押さえられてしまう。この事件を耳にした熊造は、武士精神が錆び付いた太平の世に珍しく侍の魂を備えた人物と見込み、農家の出でありながら田中家に迎え松の婿とした。当時では常識外れの決断だ。
庄屋の三男坊は一夜にして武士になり、時言と名乗る。当初は藩の若侍に冷たい視線を浴びていたが、代々の武士よりも武士らしくありたいと世に出たばかりの砲術を江戸で学び、戊辰戦争がはじまると砲隊長として意気軒昂に参戦した。ところが守備を任ぜられ、一戦も交えることなくそのまま武士の時代は終わってしまった。
田中時言と松の間に、三男として慶応2年(1866)に生まれたのが釟三郎だ。命名した熊造は釟三郎の生後20日あまりで逝去するが、彼の英知はやがて曽孫に受け継がれる。
貧困と闘いながら学ぶ
時言は時代の変化の中、運悪く武士としての生活の糧を失い、一家10人を養うために岐阜名産の和傘の骨を削って働くも、家屋敷を切り売りするまでになってしまう。しかし、貧乏だからといって教育には手を抜かず、その方針はまさに武士道精神、貧しくとも卑しい人間には育てなかった。
釟三郎は幼い頃より闘争心に満ち、鬼ごっこも戦争ごっこも大将格。イタズラも好きで、そのため短気な時言によく叩かれた。しかし、時言は慈愛深く釟三郎を教育し、学びたい気持ちにはいつでも応えてくれた。釟三郎は小学校を卒業するも、働き手でもあった長兄が東京へ出て家計はますます厳しくなり、中学校への進学を諦めかけていた。しかし、時言は何とか月謝を工面する。ところが教科書が買えない。でも、釟三郎は進学できることに大いに喜んで父に感謝し、隣の席の友人に教科書を見せてもらい猛勉強、好成績で進級を勝ち取った。
ところがいよいよ月謝も払えないほど田中家は困窮してしまう。そこで釟三郎は齢14にして中学校を退学、貿易商館のボーイを志し横浜へ出ることを決意する。しかし、働き口が見つからず、長兄の支援を受けて私塾に通い貧しい書生生活を送る。そんな釟三郎の目に飛び込んできたのが、東京外国語学校露語給費学生募集の広告。喜び勇んで応募し、見事入学する。
だが最終学年の5年になる時、学校が廃止され東京商業学校の語学部として編入、さらに政府の命により語学部も廃止、給費も取りやめになってしまう。卒業目前ゆえに呆然とした釟三郎だが、もともと商人を目指していたこともあり、これ幸いと商業学校への転籍を目指すことに。一方で釟三郎とともに主席の座を争ってきた長谷川辰之助は、これを機に文学で生きていくことを決意、それを父に伝えると「くたばってしめぇ!」と怒鳴られ、それを転じ「二葉亭四迷」という名で文学史に名を残した。
商業学校への転籍にともない、釟三郎には学費という重い課題がのしかかってきた。そこで釟三郎は最終手段に打って出る。時言の知人の遠戚である裁判所の判事補、平生忠辰が娘婿として迎えたいという話に乗り、平生家の養子となり援助を受けた。かくして平生釟三郎となったが、その後再び給費も認められ、安心して勉学に励みボートや演劇で青春を謳歌。学校も高等商業学校となり、その第一期生として明治23年(1890)に卒業した。高等商業学校は現在の一橋大学の前身である。
神戸との最初の接点
朝鮮政府から税関職員に卒業生を紹介してほしいと、高等商業学校の初代校長、矢野二郎に依頼が舞い込むと、矢野は一も二もなく釟三郎を推薦。これを受諾し現地へ赴く際に神戸港から出発したが、これが釟三郎と神戸の最初の接点のようだ。
釟三郎は朝鮮で勤務したが、はたまた矢野校長から兵庫県立神戸商業学校が荒れているので立て直してほしいと依頼があり、校長として明治26年(1893)に赴任する。知事や県議会を説得し、予算増加を勝ち取って体制を整備、授業をボイコットしていた生徒へは「商人を目指す者は浪費すべきではない。県からの支出や父兄からの授業料を受け取って勝手に休校するとその費用は無駄になるではないか。こんな簡単な利害の判断ができない者は、我が校の生徒の資格はないから立ち去れ」と説き、校紀の乱れを正した。
学校の再建に成功しつつあり、教育という仕事にやりがいを感じていた釟三郎だが、三たび矢野校長から説き伏せられ、東京海上保険(現在の東京海上日動火災保険)に入社して渡英。その後は実業界で活躍した。
教育への熱い心
釟三郎は明治33年(1900)に大阪支店長と兼務という形で神戸支店長に就任、その後外遊し、帰国後は家庭の事情もあり健康的な住まいを求め、縁あって明治41年(1908)、大阪の社宅から住吉村に移り住んだ。当時の住吉村は住吉川に沿う反高林、観音林が開発され分譲がはじまった頃だった。
長い海外経験の中、釟三郎は世界で通用する人材の育成とともに、資源の少ない日本では科学技術の発達が不可欠ゆえ、科学者の養成も肝要と考えるようになる。一方、釟三郎は高等教育を受けられたのは給費生として支えてくれた国のおかげという思いを常に抱いていて、いかにして国に報いるべきかとの思いを強くしていた。そこで優秀だが資金に困っている学生を私費で支援しようと考え、当時東京帝国大学(現在の東京大学)へ多数の学生を送り出していた第一高等学校(現在の東京大学教育学部)の校長、新渡戸稲造に学生の推薦を依頼する。ところが反応がなく、再度お願いしたがすぐ退任、後継の校長にも申し送りせず事実上無視の扱いに。釟三郎は教育者の不誠実さと無責任さに幻滅する。やむなく、釟三郎は明治45年(1912)、自ら奨学金制度(後の拾芳会)を立ち上げ、一部の学生は自邸に住まわせ、夜は食卓をともに囲むなど温かく接し、師弟同行教育を実践したのだった。
そして、貧困に苦しみつつ努力して優等生になったという男を娘の結婚相手にと目したが、実はこの男がかなりの奸物で女癖も悪く、釟三郎の思いやりにつけ込んで金までだまし取った事件が起こった。これと、先の奨学生推薦の件とを通じ、日本の教育方針は知識を詰め込んだ者が優秀と評価し人格を重んじていないと痛感した釟三郎は、学校教育こそ人物を養成することを目的とすべしという思いを新たにする。
そんな折、同じく住吉に居を構える弘世助太郎(日本生命社長)が来訪。そして、住吉はすぐれた住環境があるが教育環境が未熟ゆえ開発が進まないので、先住の実業家有志で特別な小学校を建設しようと思うが、教育経験者がいないので兵庫県立神戸商業学校校長の経験をもつ釟三郎に発起人になってほしいと懇願した。釟三郎は家計の事情により金銭の負担がなければと答え、弘世もこれを了承した。
かくして明治44年(1911)、
甲南幼稚園が開園、翌々年に甲南尋常小学校が開校し、発起人には釟三郎、弘世のほか住友財閥の田辺貞吉、数多くの電力会社や電鉄会社の設立に関わった才賀藤吉、住吉や雲雀丘を開発した阿部元太郎、建築家の野口孫市、ほかにも小林山郷、進藤嘉三郎ら11人名が名を連ねた。土地は住吉村から反高林の3千坪あまりが無償で提供された。
ところが入学児童が少なくすぐに運営につまずき、発起人で不足金を立て替えることになった。金銭上の負担がないことを条件に発起人になった釟三郎が資金を工面した一方で、他方では発起人の数名は逃げてしまう。残った釟三郎、田辺、才賀、阿部、小林、進藤は議論を重ね、一時は廃校も考えるが、教育事業は企業経営と違い、財政難で投げ出す訳にはいかないと釟三郎が経営を引き受け、学校の川向かい、現在のオーキッドコート一帯に大邸宅を構えていた鉱山王・久原房之助の援助を仰いで窮地を脱し、やがてその教育内容が評価されて入学希望者が増え、運営も軌道に乗っていった。
その後、伊藤忠商事の二代目伊藤忠兵衛や安宅産業の安宅弥吉から援助・協力を得て、大正8年(1919)にいまの甲南大学岡本キャンパスの地に甲南中学校を開校、さらに大正12年(1923)には7年制高校へ発展、戦後、甲南大学へと飛躍していく。
中学校創設当時はこの裏手の岡本山に二楽荘が聳えていた。二楽荘とは明治42年(1909)に西本願寺門主の大谷光瑞が建てた「六甲の天王台」と評されるほど壮大かつ壮麗な邸宅で、麓からは3本のケーブルカーで結ばれていた。ところが大正3年(1914)に閉鎖され、久原の手に渡る。久原は校舎の資材を提供するとともに、釟三郎へ二楽荘の永代使用権を譲渡したいと申し出たが、昭和7年(1932)に二楽荘が焼失するなどして叶わなかった。もし二楽荘の活用が実現していたら、甲南の学生はケーブルカーで通学していたかもしれない。
大正15年(1926)、釟三郎は甲南学園の理事長に就任、昭和8年(1933)には校長となり、「人格の修養と健康の増進を重んじ、個性を尊重し、各人の天賦の才能を引き出す」という釟三郎イズムがより教育現場に浸透、自由な校風の中、多数の優秀な人材が輩出したことは言うまでもない。学生が治安維持法違反に問われても処分せず、「一つの思想に偏ることなく広く勉強せよ」と諭したという。また、人格形成の一環として体育を重視し、釟三郎もまたラグビーの熱烈なファンだった。
身を挺して神戸のために
釟三郎は数々の社会事業に尽力し、神戸の発展に尽くした。御影山手の甲南病院もまた、釟三郎によって昭和9年(1934)に開院。営利主義ではなく患者本位で、貧しい者でも腕の確かな医師にかかれるようにという釟三郎の理想を叶えた。
甲南病院はホテルライクなロビーやサンルームなどアメニティ充実、無料送迎バスまで運行した。また、当時としては画期的な完全看護制を採用し、その役割を担う意識やスキルの高い看護師を養成すべく看護師の養成所まで開設。病院の食事にも心を砕き、栄養に配慮するだけでなく、希望すれば医師の許可の上、追加料金で肉汁やプリンなども注文できた。
サービスで医療へのイメージを変えた甲南病院は、開院直後に神戸を襲った室戸台風の際には負傷者の救済にあたったほか、近隣に無料診察券を配布するなど地元へ奉仕。その精神は阪神・淡路大震災時にも受け継がれ、現在も災害医療の砦のひとつとなっている。また、開院当時から地域の開業医と協力関係を築いたが、この取り組みは現在の病診連携のお手本とも言える。
釟三郎は住吉に移り住む前に最初の妻と2番目の妻を3年のうちに相次いで亡くしている。そんな辛い体験も病院設置へと突き動かしたのかもしれない。
さて、昭和初期の神戸は、「東洋のウォール街」と栄華を極めていた時代から一転、第一次世界大戦後の世界的不況に関東大震災が輪をかけた長く暗い不景気の波に呑まれていた。そして神戸を代表する企業、川崎造船所も倒産の危機に瀕していた。そこで、その立て直しを担う人物として釟三郎に白羽の矢が立った。最初は断った釟三郎だが、もし倒産すれば川崎造船所や下請けなど関連会社の社員、さらにその家族を合わせ神戸の住民の2割が困窮してしまうというので、実業家としてではなく社会奉仕として昭和6年(1931)、金融機関との融資をめぐっての和議整理委員を引き受けた。
ゆえに報酬はゼロ。だが、債権者と粘り強く交渉し和議をまとめ、さらに社長に就任して組織改革と管理の徹底を進め、爪に火をともして捻出した資金で設備投資をおこない生産性の向上に努めた。一方で労働条件の引き下げに労働組合の反発があったが、やがて無償で奮闘する釟三郎の奉仕精神や当時としては珍しかった情報公開が労働者の心を動かし、労使一体となって危機に挑み、川崎造船所は危機を脱した。ちなみに釟三郎は労働者の福利厚生にも力を入れ、東山学校や川崎病院を設けている。
釟三郎はさらに、イギリスで協同組合の活動に関心を寄せていたこともあり、神戸購買組合を立ち上げた賀川豊彦に共鳴。実業家の那須善治を賀川に紹介し、賀川の熱意に心を動かされた那須は大正10年(1921)に灘購買組合を設立した。戦後、神戸購買組合と灘購買組合は合併し、現在のコープこうべとなり、世界屈指の規模を誇る生協に発展している。
晩年は貴族院議員や文部大臣、あるいは枢密院顧問官など、国策関係の要職を歴任したが、これもまた国への奉仕という思いで臨んだ。父や曽祖父から受け継いだ武士道と英国で培った紳士の精神を胸に、世界と未来を見つめ、身を粉にして社会に尽くした釟三郎は、日本の敗戦を見届けたように昭和20年(1945)の11月に人生の幕を下ろしたが、彼の蒔いた種は戦後大きく花を咲かせ、豊かな実りを神戸に、日本にもたらせ、我々もまた知らず知らずのうちにその恩恵にあずかっている。
大阪の財界人からも慕われた平生釟三郎
「欲を忘れたものくらい強いものはない」。「真に強いということは、正しい行いのものにおいてはじめて期待できる」。
この寸言は、甲南学園創始者の平生釟三郎の言葉である。平生は東京海上保険の専務取締役を務めるが、「50歳までは実業界のために身を挺し、50歳になってから社会奉仕を」と甲南学園を創設した。経済界を去り、甲南学園設立をめざす平生に、大阪の財界人たちが資金を出し合い、平生に胸像を贈っている。この胸像には、彼らのサインが残されている。