12月号
連載 神戸秘話 ⑫ 花の心を知り、自分の心とす 佳生流二代目家元 西村雲華
文・瀬戸本 淳 (建築家)
われわれの祖先は花を立て神を迎えた。人も、植物も、一瞬ごとに命の輝きがある。華道はそこに尊さを覚える日本人の美意識を伝え、その表現世界は広大にして深遠だ。
神戸では多くのすぐれた華道家が活躍しているが、流派を問わず多くの華道家たちに慕われた佳生流二代目家元、西村雲華なくして今日のいけばな界の和はなかっただろう。
西村雲華は初代家元の西村翆雲の子として大正5年(1916)に黒田庄(現在の西脇市)に生まれた。父に師事した彼は昭和17年(1942)に神戸へ移り、その翌々年に県一高女(現在の神戸高校の前身)に勤めた。
戦後間もなく、当時の苦瓜恵三郎校長が裏山でたおってきた曲がりくねったノジギクを学校に持ち込み、「これを生けてくれ」と差し出すと、ものの見事に生けてみせ、校長を驚嘆させた。これがきっかけで終戦後もっとも早く学校華道部を復活させた。ところが戦後の混乱期ゆえ花屋にろくな花材はなく、野山にあふれる花木を集めて、どんなものでも生けられることを教えた。神戸高校となった後の昭和26年(1951)まで在職したが、いけばなに専念するために退職するも、クラブ活動だけはと平成17年(2005)まで、家元じきじきに講師を務めた。昭和30年代になると神戸市内の各中学校でいけばなを教えるなど、華道の底辺拡大に貢献している。
華道家としては、移り変わる時代時代の生活様式に合った芸術としてのいけばなを追求した。古典的な本質を土台とし、自由な発想で前衛的な作品を発表。書道や尺八、日本画、写真などにも才覚があり、書や写真とコラボレーションした花展を開催するなどいけばなを総合芸術に昇華させ新境地を切り拓いた。私は高校時代、美術部だったが、その時絵を教わった大橋良三先生は雲華と親しかったそうで、花そのものに対しての理念と愛に感銘を受けたという。
昭和31年(1956)に二代目家元となるが、以前から華道界全体の発展を見据えて活動。流派を超えて研究指導にあたるべきと考え、兵庫県いけばな協会の創設、日本いけばな芸術協会の発足に大いに尽力した。国際交流にも積極的で、いけばなを通じ世界へ日本文化を伝えた。これら数々の業績により、平成6年(1994)に勲五等双光旭日章を受章している。
惜しくも3年前の暮れ、あと10日で100歳という日に逝去された。現在は私も親しくしてもらっている三代目家元、西村公延さんが佳生流を率いている。さんちかの広場に飾られるオブジェのようないけばなは彼の作品だ。10年続いた神戸ビエンナーレでは、華道家の吉田泰巳総合プロデューサーのもと、市民を巻き込んだサポーターのリーダーとして大活躍された。
「人間一人一人が花のように美しく、自然な姿に生きられるのなら、どんなにか幸せな社会が生まれることでしょう」。息苦しいこの時代、花のように凛と生きた華道家の言葉が私たちの心に響く。
※神戸高校鵬友会誌『鵬友』、『新日本華道五十年の歩み』、『佳生流七十年のあゆみ』、『佳生流八十年のあゆみ』、佳生流ホームページなどを参考にしました。
※敬省略
西村 雲華(にしむら うんか)
佳生流二代目家元
1916年生まれ。1942年に西脇から神戸に地を移しいけばなの活動を始め、1949年に現在の佳生流の独特の花種となる新潮花などを制定する。1956年8月に二代目新日本華道の二代目家元となる。1979年兵庫県文化賞、1980年神戸市文化賞、1989年神戸新聞平和賞、1994年春の叙勲勲五等双光旭日章ほか多数。兵庫県いけばな協会や日本いけばな芸術協会の発足当時から役員として活躍。いけばなへの情熱だけではなく写真や書などにも情熱を注ぎ、いけばなと写真、書を融合した花展を開く。
瀬戸本 淳(せともと じゅん)
株式会社瀬戸本淳建築研究室 代表取締役
1947年、神戸生まれ。一級建築士・APECアーキテクト。神戸大学工学部建築学科卒業後、1977年に瀬戸本淳建築研究室を開設。以来、住まいを中心に、世良美術館・月光園鴻朧館など、様々な建築を手がけている。神戸市建築文化賞、兵庫県さわやか街づくり賞、神戸市文化活動功労賞、兵庫県まちづくり功労表彰、姫路市都市景観賞、西宮市都市景観賞、国土交通大臣表彰などを受賞