1月号
芦屋と平田町 そのあゆみと価値
緑豊かな閑静で、日本でも屈指の邸宅地「芦屋」。
その中でも芦屋川から芦屋の浜へつづく平田町は、
大正時代からお屋敷街として大阪・船場の商家がこぞって邸宅を構えた。
やがて平田町を基点に、浜手から山手に向かって開け、現在の芦屋を形どった。
南北は国道43号線と右岸河口までの間、
芦屋川から西に2ブロックという細長いこのエリアは、
芦屋の邸宅文化を育み、今も芦屋の変遷を見守りつづける。
野村不動産 × 神戸っ子出版
風光明媚な理想郷
ヴァカンスの時期を迎えたフランス。パリから地中海へと向かう道路に車があふれている。渋滞の中でパリっ子たちはこう思っただろう。「ああ、コート・ダジュールが都会に近いところにあれば!」。そんな夢みたいな話が、明治末期から昭和初期にかけての時代の関西にはあった。裸婦像で知られる洋画家、小出楢重はかく語りき。「電車で大阪へ40分、神戸へ20分の距離である。その気候や地勢の趣が南仏ニースの市を中心として、西はカーニユ、アンチーブ、キヤンヌ、東はモンテカルロと云った風な趣きにもよく似通ってゐる様に思へてならない」。
そう、その地は芦屋。白砂青松とはまさにこの地のための言葉ではないかと思うくらい、優雅な松並木の向こうの白い砂地にまぶしい陽光が照りつけキラキラと輝いた風光明媚なところで、江戸時代の観光案内書『摂津名所図会』にも海岸から芦屋川沿いへと続く松並木が描かれている。旅人たちはこの風景に心癒やされたことであろう。
明るく美しい理想郷で、しかも都会に近ければ、そこに住みたくなるのは当然の理。田畑が広がっていた芦屋は、時代の波を受けて住宅地へと変貌を遂げていく。
鉄道と大阪の都市化が背景に
住宅地開発への大きなインパクトとなったのは、鉄道である。明治7年(1874)に官営鉄道(今のJR)大阪~神戸間が開通したが、住吉に駅が設けられたため、後に住吉川沿いが発展していく。しかし、官営鉄道は明治後半になると下関~九州・朝鮮へ通じるルートとなり、走る列車はいわゆる長距離輸送の「汽車」がメインゆえ、通勤で利用するには不便であった。
大正2年(1913)に官営鉄道の芦屋駅が開設されたが、郊外住宅地は、速くて本数もあり、気軽に乗れて便利な私鉄の「電車」による都市間交通の整備により本格的に発展していくこととなる。明治38年(1905)に阪神電車が、大正9年(1920)に現在の阪急神戸線が開業したが、阪神、続いて阪急が開通したこともあり、郊外住宅地は浜側から山手へと伸展していく。阪神・阪急とも競うように乗客獲得のために郊外住宅の魅力を伝える冊子を発行するなどの宣伝を進め、乗車目的地を設けるべく行楽地にも力を入れていく。電鉄会社も自ら住宅地経営に乗りだし、阪神の浜甲子園、阪急の武庫之荘、甲風園、岡本などの郊外住宅地もこの時代に誕生している。
このように鉄道敷設は宅地開発の大きなプル要因となったが、その逆のプッシュ要因にも大きなポイントがあった。それは、大阪の工業都市化である。
その頃の大阪は日本一の大都市で工業が発達し「東洋のマンチェスター」とよばれていたが、その繁栄の裏には環境の悪化があり、特に大気汚染と水質の悪化は市民生活に大きな影を落としていた。
一方で阪神間は空気清澄(せいちょう)、水も宮水に代表される六甲の伏流水で水質も良く、海水浴まで楽しめる良好な環境。ゆえに大阪の商人たちは家族、特に子どもたちの健康のためにこぞってこの地を求めた。阪神が発行した冊子『郊外生活』に医師が寄せた記事を抜粋して紹介すると、「北は山を負ひて寒風を防ぎ、南は海に面して涼風来たり、冬は暖かにして夏涼しく、大気清浄オゾンに富み、海水清澄、漁獲多く、山水明媚、風光に富み、四時風の方向宜しき上に、交通至便」とあり、いかにこの地が理想的であったかが伺え、実際に医師たちも多く移り住んでいる。
阪神電鉄の開業で芦屋の浜は海水浴場としていっそうの賑わいを見せていたが、避暑で芦屋に滞在した後に移住した例も多かったようだ。今でいうところの「リゾート」に住むという感覚だったのだろう。
そしてもう一つ、芦屋の発展に大きな出来事が。それは大正12年(1923)に発生した関東大震災だ。震災から逃れようと東京より多くの人々が関西に移ってきたが、その際にも環境の良い阪神間が選ばれ、芦屋にも関東からやって来た財界人や文化人が邸を構えた。
平田町の開発と華麗なる住民たち
開発が進む前の芦屋は、田園の中に集落が点在していた農村、漁村であった。そこに流れる芦屋川は、六甲山を源に「茅渟(ちぬ)の海」大阪湾へ注ぐとともに、長い歳月をかけて花崗岩の砂礫を山から運び扇状地を形成、さらに川沿いに砂礫が堆積して天井川となり、川の両岸は小高い丘になっていた。今でこそ建物が建ち並びイメージするのは難しいが、周囲に視界を遮るものがなかった昔は、山の翠と海の碧が寄り添う阪神間ならではの美しい景観を一望でき、爽快な場所であったに違いない。
そんな芦屋川が大正4年(1915)に改修されるとともに、平田町など川沿いのエリアが宅地開発される。また、大正8年(1919)には土地耕地整理事業を進め、平野部に宅地が造成されるようになった。その後、山の方へと宅地開発が進むが、六麓荘の開発は昭和3年(1928)と、平田町より10年以上も後のことになる。
阪神芦屋駅にほど近く、目の前に清流、芦屋川が流れ、美しい海が眼前に広がる小高い丘の平田町は、まさに桃源郷だったのであろうか。高島屋の創業家、朝日新聞の創業者の一人、八馬財閥家、ほかにも当時の主要産業であった紡績や船舶関連の企業家たちが邸宅を構え、芦屋の中でも「お屋敷街」として風格を示すようになる。
一方、面白いことに芦屋川の対岸には文化人や知識人が多く、「日本のプリンシパル」白洲次郎、建築・絵画・文芸などマルチな才能を発揮した西村伊作などが住み、与謝野晶子も門下生を訪ねてしばし滞在。芦屋の地で詠んだ「ふるさとの和泉に暗き雲沸きて芦屋に見るは紀の国の山」という彼女の歌からも、いかに芦屋が憧れの地であったかがわかる。
また、平田町の西隣には芦屋(深江)文化村とよばれた一角があり、商社マンや銀行員、貿易商など海外経験者が住み、ここから山田耕筰、朝比奈隆、服部良一、貴志康一などの世界的音楽家が羽ばたいた。
平田町は芸術の拠点に挟まれ、文化的にも得がたい環境であったのだ。
芦屋発祥のモダニズム
平田町に代表されるように、芦屋へ移り住んで来た人たちの多くは上流階級で、中でも大阪・船場の商人たちが主体だった。前出の『郊外生活』には「阪神沿線は地勢も気候も一体に子供の衛生によいが、就中(なかんずく)香櫨園から芦屋、魚崎、住吉、御影は日本有数の健康地で、この辺に育った子供は元気で活発で其発育ぶりは頗(すこぶ)る良い」とあり、ことに跡継ぎを重視した商人たちにとって、子育てに好適な芦屋を選ぶのは当然のことだったのかもしれない。また、風水によれば西・北は金運や事業運に恵まれるとされている。大阪からみて西~西北に位置した芦屋は「幸運の地」だったのだろう。
邸宅を構えて移り住んだ商人たちは、昔ながらの粋な船場文化の影響を受けていたが、国際貿易港として栄えていた神戸に近づいたことで洋風文化にも触れ、和洋折衷の独自の文化を育んでいった。その様子を見事に描き出したのが、名作の誉れ高い谷崎潤一郎の『細雪』だ。
芦屋には渡辺節、村野藤吾など当時のトップクラスの建築家たちが手がけた邸宅が建ち並ぶようになるが、その最たるものがフランク・ロイド・ライトが設計した旧山邑邸(現在のヨドコウ迎賓館)と言えるだろう。しかし、ただ西洋風の住宅を建てたのではなかった。芦屋には主に接客に使用される洋の空間と、日常生活の場としての和の空間を兼ね備えた「和洋館」という独特の建築が多くみられ、その様子から欧米文化を吸収し自分たちの文化に昇華させていった芦屋の人たちの暮らしぶりがうかがえる。
また、日本初のファッション月刊誌も芦屋から生まれ、最新のモードの紹介のみならず、地方の農村で食糧が不足していた時代にダイエットの記事が載るなど、この地がいかに裕福であったかをうかがい知ることができる。少し時代は後になるが、神戸の老舗帽子店、マキシンで腕を振るう神戸マイスターの山口巌氏によれば、駆け出しの頃にこのあたりの邸宅へ高級帽子を配達したという。神戸に近いこの地では早くから洋装を楽しみ「ファッション」という概念が定着していたことは間違いないだろう。
作家の谷崎潤一郎や詩人の富田砕花、俳人の山口誓子、画家の小出楢重、写真家の中山岩太やハナヤ勘兵衛など芸術家たちもこの地を愛し、独自の芦屋文化を醸成していったが、これらが阪神間モダニズムにおける大きな文化的支柱であったことは言うまでもない。
芦屋の象徴、旧田中岩吉邸
芦屋川は平野部を流れる距離が約2キロと短く、川沿いの土地は自ずと限られている。中でも平田町は、希少性の高い環境ゆえ得難い魅力があり、芦屋の中でも「お屋敷街」としての歴史と風格を備え、世界的邸宅街としての芦屋の源流ともいえる場所であると言えよう。
そんな平田町の鵺塚橋(ぬえづかばし)のたもとに、かつて一軒の洋館が佇んでいた。その瀟洒な館は、芦屋の絵はがきにも登場するなど、平田町、否(いや)、芦屋のシンボルとして愛されてきた。
その建物の名は、旧田中岩吉邸。大正12年(1923)、「様式建築の名手」と評された松井貴太郞の設計により建設され、当時の建築雑誌『新建築』に「堂々たる英国風のもので、芦屋川の対岸から見たときは、磯馴松の梢を透かして、スレート葺きの寄棟が高く聳え、此辺では一際目立つ御邸」と紹介されている。
この邸宅の最初の主、田中岩吉氏は台湾鉄工所、東京精糖、田中機械製作所などを経営した実業家で、「現代的な生活様式を」と全室洋室の邸宅を建てた。自邸の建設中に外遊し、海外で新邸のための調度品を取りそろえ、家具などはもちろん、自動湯沸器や焼石コンロなど当時最新の設備までアメリカより調達し装備。時代の一歩先を行く理想の邸だったのだろう。
やがて田中岩吉氏よりこの洋館を受け継いだのは、当時紡績業界に君臨していた近江商家、阿部一族の実業家、阿部彦太郎氏。全国の米相場にその名を轟かせた稀代の商人、先代阿部彦太郎氏の手腕を受け継ぎ、東洋紡、内外綿、大阪製麻、大阪商船、豊国火災、角一護謨など数々の企業の重職を務めていた人物で、大阪府多額納税者リストの「常連」としても知られていた。
戦後はタツタ電線の社長、辰巳卯三郎氏の邸となり、優雅な暮らしが営まれてた。卯三郎氏の長男、辰巳一郎氏は後にランドプランナーとして世界で活躍するが、「この家が建築のすべてを教えてくれた」と語っている。一郎氏が巨人軍の藤田元司選手と親交が深かったこともあり、球史に名を刻む名選手たちも度々この邸宅にやって来たそうだ。また、テニスコートも備える広大な敷地では、しばしば映画のロケもおこなわれ、銀幕のスターたちが訪れることもあったという。
そんな華麗な話も今は昔であるが、世紀は変わっても、平田町には昔と変わらぬ静謐(せいひつ)さと趣き、そして落ち着きがある。「高級住宅街」の華美さこそないが、「お屋敷街」の厳かさがこの地を誇りに思い、そして愛する住人たちにより保たれているのだ。
受け継がれ、守られる景観
芦屋市は昭和26年(1951)に制定された「芦屋国際文化住宅都市建設法」により、住民投票を経て国から国際文化都市に指定されている。個別の法律で国際文化都市に指定されている自治体は全国でわずか9つ。芦屋以外はすべて観光都市で、文化住宅都市は芦屋のみだ。芦屋市の景観は、自治体が制定する条例だけではなく、芦屋のために国会が制定した法律によっても守られている。
この法律の精神のもと、市民の要望もあり、芦屋市は厳格に景観や環境の保護に取り組んでいる。
平成16年(2004)に「芦屋庭園都市宣言」をおこなった芦屋市独自の景観に関する規定は、京都と並び全国的に最も厳しい内容だ。芦屋市は全市域を景観地区に指定、さまざまな景観規制があるが、特に大規模開発は都市景観アドバイザーによる「美観」の審査が必要で、データ提示だけにとどまらない感覚的・実践的な景観保全が求められている。
そんな景観地区の中でも、平田町をはじめとする芦屋川沿岸の地域は「河岸の松や桜の並木と宅地内の生垣、樹木及び御影石の石積等が一体となった緑豊かな特徴ある景観」の保全を目的として芦屋川特別景観地区に指定され、壁面の意匠や屋根の形状に関するまで、細やかな規定により周囲の景観との調和が求められているのだ。
芦屋市はほかにも「芦屋市住みよいまちづくり条例」をはじめとする条例の制定のみならず、平成26年(2014)に市独自で景観計画を定めることが可能な景観行政団体へと移行し、屋外広告物条例の策定などの景観規制が検討され、今後も永続的に景観保全に向けた規制の厳格化が進むとみられている。
このように、芦屋の美観は芦屋市民だけのものではなく、もはや日本国民の誇りとして、先人たちから受け継がれ、真の豊かさを識る芦屋の人たちの手で守られている。芦屋邸宅文化の本流は今なお、芦屋川のゆかしき瀬音とともに、絶え間なくこの地にせせらいでいるのである。
参考文献
『阪神間モダニズム再考』竹村民郎著 三元社
『阪神間モダニズム : 六甲山麓に花開いた文化明治末期-昭和15年の軌跡』「阪神間モダニズム」展実行委員会編著 淡交社
『阪神間モダニズム展 ハイカラ趣味と女性文化』芦屋市谷崎潤一郎記念館・芦屋市文化振興財団編 芦屋市谷崎潤一郎記念館
『あしや子ども風土記 文学さんぽ』芦屋市文化振興財団
『マキシン70年のあゆみ』株式会社マキシン
『芦屋学へのアプローチ』兵庫県立芦屋高等学校・自主研究グループ
『第29版 日本紳士録』交詢社
『大正人名辞典 第4版』東洋新報社
『明治大正史』実業之日本社
『新建築』大正15年6月号 新建築社
『産業新潮』昭和32年6月号 産業新潮社
芦屋市ホームページ