1月号
モダニズムと和洋がオーバーラップ 芦屋ならではの建築文化が生まれた
明治・大正時代にいち早く郊外住宅地として開けた平田町。
旧田中岩吉邸に象徴されるように芦屋の洋館文化は花開いた。
しかし、もともと和館も多く存在していた。
なぜ芦屋は洋館の街となったのだろうか。
建築家で芦屋の建築文化に造詣が深い福嶋忠嗣さんにお話を伺った。
福嶋 忠嗣 さん
芦屋洋館建築研究会 代表
兵庫県ヘリテージマネージャー
1944年、芦屋市精道町に生まれる。神戸大学工学部建築学科卒業。福嶋忠嗣建築設計室所長。芦屋洋館建築研究会主宰、芦屋の景観を考える会主宰。
旧田中岩吉邸(県・近代化遺産04031)は、新婚の所帯として建てられたと思われます。新築にあたっては、新婚旅行を兼ねて家具など色々な物品をヨーロッパなど海外で買い付けて使用したと建築雑誌に掲載されているんですよ。もともと官僚だった福崎出身の民俗学者、柳田国男がスイスを旅行したときの日記に、田中岩吉氏と親しく出会ったという記載も残っています。
設計したのは横河工務所というもともと造船関係の会社で、鉄骨のビルやエレベーターを備えた近代的な米国流のビルの設計を手がけた会社でした。設計を担当した松井貴太郞は、自身も西芦屋町に自邸を建てましたが、残念ながら山手幹線の工事で震災後に取り壊されてしまいました。どちらかというと山際の六麓荘と違い、平田町は大阪船場の老舗の中でもハイクラスな人たちが住んでいたこともあって、芦屋で一番住環境に関心が高いところで、一種独特な雰囲気があります。戦前に結成された「平田会」という町会のメンバーには高島屋、朝日新聞社、八馬財閥、半田綿行、長瀬産業などさまざまな会社の経営者と、錚々たる顔ぶれでした。
平田町は芦屋川の河川敷だったところでした。明治以前の芦屋川には土手などなく、橋も整備されておらず、どこまでが河原か分からない感じだったのでしょう。土地は基本的に砂質で田畑もなく、生業といえば漁師が苫屋を建てて鰯を獲っていた程度でした。
そんなところだったのですが、精道村(芦屋市の前身)は日本一の金持ち村とよばれる村になります。なぜかというと、村が宅地開発をしたからです。芦屋川に御影石積の護岸をつくり、河原の土を上げて、土地造成をしたからです。
一方、船場の富裕層はその頃、大阪の公害に悩まされていました。職住近接で、工場が近かったのです。子どもたちは「ええとこの子」ですから、すぐに健康を崩してしまいます。当時の芦屋や東灘は、以前は大阪と同じ摂津の国中の辺境の地(フロンティア)で、自然が沢山残っていました。ですから御影や住吉が拓かれて住友財閥が別荘地を作り出し、それを参考にしたのでしょうか、芦屋も芦屋川の改修とあわせて宅地開発をおこない、船場の富裕層を引き寄せたのです。
一寸屋外に出ればすぐ海水浴ができる芦屋の環境は、船場の人たちにとって大きな魅力でした。彼らの出身は基本的に近江で、水辺に親しみがある人が多かったのです。ところが工業化が進んだ大阪では水質が悪かったのです。最初は別荘として借家を借りていて、宅地開発とともに移り住んだケースもあったようです。ですから阪神電車の沿線から芦屋の宅地開発が進んでいったのです。
精道村は宅地開発で得た利益で、今の芦屋警察の建物や旧村役場を建て、アスファルトの舗装率は90数%と日本でトップ、奥池に水道用の貯水池をつくるなどインフラを整備していきました。
芦屋は洋館の街といわれていますが、もともと芦屋には和館もありました。しかし、和館は戦争により焼夷弾の直撃を受け、洋館が残ったのです。特に平田町にあるような立派な洋館は鉄筋コンクリートで建てられていただけでなく、敷地が広く屋敷林が森のようでしたから、上空からは気付かれなかったのでしょうね。
芦屋の建築を研究していて面白いのは、「和洋館」の存在です。洋館を建てた船場の商家は、もともと近江の農家の出身者が多かったので、接客以外の生活スペースは和だったのです。だいたい和室が8割、洋室が2割といった感じです。和風建築が古いとか洋館が新しいとかそういう感覚ではなく、モダナイズして和洋をオーバーラップしていく住感覚があったのですね。住吉川界隈は完全な洋館ばかりですが、芦屋は和洋館という融通無碍に住空間を連続する独自の住文化があったのです。