1月号
祖父母との思い出を紡ぐ「芦屋の中の京都」平田町 《ギャラリー開雄》
船場で成功を収めた
菅原開次郎氏が
大正時代に建てた
迎賓館「岸科忠雄邸(旧菅原邸)」を受け継ぐ、
平田町のギャラリー「ギャラリー開雄」。
そのオーナー天野禮子さんの娘さん
増保千絵さんに、
建物への思いや平田町について
お話を伺った。
曾祖父の菅原開次郎は船場で仕事をしていた頃、阪神電車で大阪と神戸を行き来している時に、電車からこのあたりの松林を望み、その景色に魅せられて「必ずここに家を持ちたい」と思って、やがてこの地に移り住んだと祖母から聞いています。おそらく祖母が生まれてまもなくこちらに本宅を移し、その頃にはまだこの洋館はなく、母屋に日本家屋があっただけで、曽祖父はそこから大阪へ仕事に通っていたようです。
その頃、大正時代ですが、商売が順調でお客様が増えていったようで、園遊会などをするようになり、迎賓館が必要になったのでしょう。それで、この建物が建てられたと聞いております。
当時、このあたりは旧田中岩吉邸をはじめとして洋館が建ち並んでいて、祖母の話ではその洋館を観て曾祖父が「その家はどこで建てたのか?」と訊きに行ったそうです。その頃はこのような建物が流行っていたのでしょうか。
かつては向こうに母屋や蔵屋敷があり、鬱蒼と緑の生い茂る、森のような一角もありました。私が小さい頃にも庭の真ん中に芝生があり、昔はそこでよく菊の展覧会をしていたようです。祖母が言うには、神戸の老舗中華料理店「第一楼」が、テーブルや女給さんまでお店そのままそっくり、トラックでやって来てケータリングしてくれて、園遊会を開催していたそうです。そんな時代があったのですね。
祖母は結婚して一時東京に行きましたが、やがて実家の敷地にあったこの洋館を祖母の夫であった祖父が譲り受け住むことになり、この家をとても愛していました。祖父もまたこの家を大変愛していた人で、祖母が心臓を悪くしてマンションに療養に入ったときも、祖父はそのマンションでは暮らさずここに住み続け、この家から20年間、祖母のマンションへ通っておりました。朝昼晩は祖母のマンションにご飯を食べに行っても、夜寝るときは必ずこの家に帰ってきていましたから、本当にこの家に愛着を持っていたのでしょうね。
そんな祖父が亡くなる直前に祖母もこの家に戻り、祖父が亡くなるまでは二人で暮らしていました。しばらくこの家と離れていた祖母も、いろいろと思い出したのでしょうか、祖父が亡くなった後はこの家に一人で暮らしておりました。
もともとこの家は、住むためではなく迎賓館として建てられた家なので、住みにくいんです。台所は後付けで、トイレは遠いし、夜は真っ暗で怖いくらいです。そして特に冬は、天井が高く本当に寒いんです。ホールは外気よりも気温が低いんですよ。そんな中で晩年、心臓が悪かった祖母が暮らしていたと思うのですが、それはやはり、自分の父(曾祖父)が建てた家への強い思いがあったからなのかもしれませんね。私の母、伯父や伯母はこの洋館で生まれ育ったので、この家を大切に想う一方で、暮らす不自由さも痛感していたようです。ギャラリーになった今、これが本来の姿だったのかしらとオーナーである母も折にふれ話しております。
私は祖父母との距離が近く、この家を残してほしいという思いを感じていました。ですから、祖母が亡くなり誰も住まなくなったからといって、この家を壊してしまうのではなく、少し特徴のある家ですからご興味を持って下さる方々に見てもらえる機会があればと、母と相談して2013年にギャラリーをオープンしました。ちょっと非日常的なこの家の空間を活用して、若いアーティストたちに発表の場を提供したり、音楽リサイタルを開催したり、もちろん展示会などにご利用頂いたりと魅力的な企画を続けていければ嬉しいですね。学芸員の勉強をはじめて、未熟ながら文化と社会の繋がりを改めて考えさせられている気がします。ただ古いものを残すというだけでなく、有効的な保存を目標にこれからもここをベースとして、文化的な活動を続けていけたらと思っております。
平田町は静かでまちなみが昔から変わらず、古いものを大切にし、外の人は少し入って来にくい雰囲気があります。華やかではありませんが、華やかさを求めて来られる方がいないので、街の空気が変わらないのですね。みなさん、静かできれいに暮らしてらっしゃって、どこか京都っぽい感じがします。
増保 千絵
ギャラリー開雄 副代表(フラワーデザイン教室 スノーレッジ主宰)。ギャラリーの運営・各企画に携わる。ギャラリーの充実をはかり、学芸員の資格取得のため現在大学へ通学中。