8月号

神戸で始まって 神戸で終る 74 お金がなかった。 でも、自由があった。
僕は30歳まで超貧乏でした。そのくせ、「武士は食わねど高楊枝」なんて、エラそうに貴族振った生活をしていました。
21歳になったばかり、まだ大人になりきれていない時に結婚しました。ポケットに入っているわずかなお金が僕の全財産だった時代の結婚です。本当に、いつもポケットの中に全財産を突っ込んで歩いていたのです。そんな貧乏亭主と、よく結婚してくれたなぁと、今の妻を尊敬しています。どこから工面したのか知りませんが、僕は妻の経済力に便乗していたのです。
そんな貧乏な若者が、22歳の時に上京しました。渋谷の六畳一間のオンボロアパートにころがり込んだ時は、会社の給料は最低最悪の金額でした。しかも上京と同時に、田舎(西脇市)の父の死です。妻は僕に代わって、西脇に、母の面倒を見るために帰っていました。今思うとよくやってくれたと思います。まだ、海のものとも山のものともつかない、駆け出しの無名デザイナーの時で、しかも、父の死と同時に、上京したばかりで会社を辞めてしまったのです。
まぁ、ロクな物を食べていないくせに、それでも東京で一人暮らしの僕は、ストリップ劇場に、活力を得るために三日にあけず通っていました。もうバカとしかいえません。
しかし、その底をつく生活の終焉に、突然就職が決まったのです。日本デザインセンターという超有名デザイナーの集団会社です。会社のオーナーのひとりは、東京オリンピックのポスターをデザインした亀倉雄策で、僕をこの会社に推薦してくれたのは、田中一光という若手No.1のデザイナーです。
この会社に入社した時の給料は、神戸時代の1万円の月給から、いきなり4万円にはね上がりましたが、同僚の宇野亜喜良は8万円、田中一光は20万円の高級取りです。この会社に4年ばかりいましたが、給料は一向に上がりませんでした。実力主義の会社だから、実力のなかった僕は、入社時とあまり変化がありません。でも子どもが産まれて家族3人、そこへ郷里から母を引き取って、六畳一間のアパートに4人暮らしです。誰かひとりが外出していないと、せま過ぎるために息ができません。だから僕は、いつも外出していました。
そんな時に、会社での限界を感じて会社を辞めてしまいました。従って、収入はゼロです。でも自由になりたかったので、ゼロでも心が解放され、自由を満喫していました。お金がないと、本当に自由になれるものです。この感覚は、本当に生活の底をついた時の感覚です。
こうしてフリーランスになったので、きっと会社勤めの時よりは収入が増えると思ったのですが、全然逆で、何ヶ月も全く、仕事の依頼など見事になかったのです。仲間3人で、銀座に一間の小さい仕事場を共有したのですが、他の2人にも仕事の依頼は全くなかったのです。
収入がなくなると、人間は次から次へと悪知恵が働いて、それなりにぜいたくな生活ができるものです。知人のお父さんが映画会社に勤めていて、映画の無料招待券がいくらでも手に入るので、驚くほど毎日のように映画を見に行きました。
映画の中で、ロベール・オッセンが着用していたコンチネンタルスーツが着たくなって、知り合いの知り合いの紹介で、銀座の高級テーラーで、ロベール・オッセンの着ていたスーツそっくりの服を作ってもらいました。お金などないので、「やがて有名になるからその時まで支払いを待って!」と言って、出世払いで了解してもらいました。
一張羅の洋服を着たものの、生活が貧しいとスーツが泣きます。スーツに似合った生活が必要になってきます。そこで、見たイタリア映画の中のバカンス生活がしたくなって、葉山に「海の家」を借りました。「武士は食わねど高楊枝」のエセ貴族生活の始まりです。しかし、せっかく借りた海の家に行くための電車賃がないために、仲間のデザイナーも海の家には一夏のうち一度も行かずに、事務所の女の子だけが毎週のように海に行って、月曜日には日焼けで真っ黒になってやってきました。
そんな時、3週間ヨーロッパツアーの募集を知って、何とか生まれて初めての海外旅行がしたくなったのです。そんな時、母が田舎の家を売ったお金を持っていることに目をつけて、母から75万円を借りて、友人の、まだ無名時代の和田誠、篠山紀信らと一緒にヨーロッパツアーに出掛けたのです。もうやることがメチャクチャです。
本誌編集の田中さんから、今の若者も貧乏生活をしている者が沢山いると聞きましたが、僕の貧乏生活はやることなすこと全て貴族的です。そこがちょっと違うかなと思います。
僕はお金がなくても常に自由な精神でいたかったので、如何に自由であるためにどうすればいいのかとばかりを考えていました。ある意味でお金がないことは自由であると、あたかも自由がすでに手に入ったかのように、過去完了形で、物ごとを考えていました。つまり、マーフィの法則というやつです。
スタジオを持った友人と毎晩一杯のコーヒーで朝までねばって、1日に1千万円(現在なら1億円でしょう)あれば、どのように使うかというような妄想を、2人で真剣に考えました。ヨーロッパから有名シンフォニー楽団を呼んで、たったひとりで大劇場を借りて、クラシック音楽を満喫するのはどうだろうと、お金がないと空想世界で貴族になれることを知っていましたので、こんな妄想ばかりを立てて、1日楽しんでいました。今の若者以上に僕は貧しかったけれど、今の若者のようにウジウジしていませんでした。
貧乏人には貧乏人の仲間ができるものです。この頃知り合った仲間は、寺山修司や唐十郎などの演劇人です。彼らも僕と負けじに貧乏な生活を送っていました。彼等は僕に公演ポスターを頼みますが、ギャラなど払ってくれません。同じただならやりたいことをやらせろと、やりたい放題のポスターを作りました。
ところが、そんなポスターを見た企業から仕事が割り込んできたのです。ハチャメチャな貧乏生活の中から生まれるポスターは、迫力があって、たちまち人気デザイナーになっていきました。
そして今の自分が、ここにいるのです。若い頃に貧乏だったからこそ、60年代の僕の、皆様が知ってくれているあのような作品が生まれたのです。何でも徹底すれば誰かが見ていてくれていて、助けてくれるものです。「武士は食わねど高楊枝」の精神をつらぬいた結果、僕は貧乏を抜け出せたのです。
お金がなくてピーピー言っている若者がいれば、一度僕のマネをして、とことんどん底生活をやってみてはどうでしょう。「捨てる神あれば、拾う神」もいることを、信じてみてください。

《毛皮のマリー(天井桟敷)》1967年 横尾忠則現代美術館蔵

《松竹新喜劇(神戸新聞社)》1958年
横尾忠則現代美術館蔵

《織物祭(西脇市)》1955/84年
横尾忠則現代美術館蔵
横尾忠則現代美術館では
『連画の河』展を開催中です。


撮影:横浪 修
美術家 横尾 忠則
1936年兵庫県生まれ。ニューヨーク近代美術館、パリのカルティエ財団現代美術館など世界各国で個展を開催。旭日小綬章、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞、東京都名誉都民顕彰、日本芸術院会員。著書に小説『ぶるうらんど』(泉鏡花文学賞)、『言葉を離れる』(講談社エッセイ賞)、小説『原郷の森』ほか多数。2023年文化功労者に選ばれる。












