7月号

連載エッセイ/喫茶店の書斎から 122 「洸人さんのパリ病」
冗談ではないのか?と思った。木津川計さんがお亡くなりになったというのだ。4月21日の新聞記事。16日に90歳でと。
「お元気になさっているだろうか」と、当連載4月号に書いたばかりではないか。
木津川さんはわたしの書いたものを何度もNHKの「ラジオエッセイ」という番組で語ってくださった。あの独特の語り口で、感動的に、またユーモアを交えて。ことに、この「KOBECCO」誌上で発表した「コーヒーカップの耳」を素材にした作品を喜んで取り上げて下さったのだった。
木津川さんについては2020年9月号に詳しく書いた。
心からご冥福をお祈りいたします。
※ ※
わたしの強い味方、武庫川の古書店「街の草」さんは、店先の本の山が今や名物になっている。これは比喩ではない。本当に古本の山が築かれているのだ。
その頂上に、顔をこちらに向けていたのが、神戸発の伝統ある文化雑誌、『半どん』の数冊だった。わたしに「連れて帰れ」と言っていた。
中の一冊、昭和63年3月発行の表紙絵が納健さん描く富田砕花師。省略の効いた砕花さんの横顔が素晴らしい。
「特集 画家の海外素描」ということで、兵庫県の画家の絵がたくさん載っている。その中に、もちろん我が菅原洸人画伯の作品もある。
洸人さんは、かつてわたしが本誌にエッセイの連載を始めた時に毎号のカット絵を提供してくださったのだった。それは2002年7月号から2010年9月号まで、実に百回近くに及んだ。また、拙詩集『コーヒーカップの耳』の出版に際しては自ら「描かせてください」と言って表紙絵とカットを提供して下さった。感謝しきれないほどの恩があるのだ。
素描は「パリの屋根」と題された、いかにも洸人さんとわかる、繊細でありながら重厚感のある作品だ。そしてわたしが注目したのは、絵に添えられた文章だった。
《朝、ホテルの窓を開けると、屋根裏部屋と小さな煙突の群れが眼に飛び込んできた。長い間夢にまで見たパリの屋根だ。ついに来たと感激がどっと沸きあがる。一九七〇年五月、はじめての渡欧で、各国を廻って最終目的地のパリに着いた翌朝のことである。灰色に淡いブルーやベージュ色などが混って朝陽に輝き、燻銀のような屋根の起伏がはるかに連らなる。気の遠くなる様な美しさにしばし茫然。
この朝の一刻からパリ病が始まった。どの家屋もガッシリとした重厚さで、配するに堂々たる街路樹の連なり、通る人々のシックな装い、控えめな店の装飾、これこそ油絵の世界だ。そして度々の大戦を生き抜いてきた人々の厳しくも豊かな表情。いろいろな人種や大道芸人まで受け入れるフランスの懐の深さ。それらの人々の醸し出す生活の哀歓は、私に尽きないモチーフを与えて呉れている。》
18年前の渡欧の思い出を書いておられるのだが、なんとも初々しい文章だ。その後は毎年パリに通って画境を進められたのだった。正に「パリ病」に罹ってしまったのだ。
画伯は2013年11月にお亡くなりになり、葬儀は北野坂のバプテスト教会で執り行われた。若き日の洸人さんが放浪の末たどり着いたのが、この教会裏の空き地。昭和28年のこと。そこに掘立小屋を建てて神戸の人になり、この教会で洗礼を受け、結婚式を挙げ、そしてこの教会での葬儀告別式であった。
式は予め生前に収録されていたお別れのビデオ放映で始まった。タイトルは洸人さんの大らかな文字で「故菅原洸人」。「わたしの告別式に来て頂きありがとうございます」というあの人懐こい声で始まり、自分の一生のあらましを語りながら、交わりのあった人々への感謝の言葉が続く。時にはユーモアを交え、会場からは笑い声さえ起こる。そして最後の言葉は「それではみなさん、さようなら、さようなら」であった。
この葬儀には、後にお亡くなりになる歌手で俳優の佐川満男さん(絵の指導を受けていた)も参列されていた。
そんなことを懐かしく思い出させてもらった書斎でのひとときだった。
古本の中に宝物を見つける喜びである。

(実寸タテ19㎝ × ヨコ8.5㎝)
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・代表者。「半どんの会」会員。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)、随筆集『湯気の向こうから』(私家版)ほか。












