6月号
有馬温泉歴史人物帖 ~其の参拾九~ 徳本(とくほん) 1758~1818
SNSがない昔にもバズった人物はいたようで、江戸時代の浄土宗の僧、徳本上人もその一人でございます。現在の和歌山県日高町の出身で、4歳の時に仲良しの虎ちゃんが亡くなって落ち込んでいると母に世の無常を教えられ念仏を唱えるように。9歳で仏道を志すも家族の反対で出家できず、27歳にしてようやく念願叶って得度すると壮絶な苦行を己に課し、紀州で何度か拠点を変えながら念仏アンド念仏の日々を過ごすうちに「なんかスゴい坊さんおるで」と評判になるのでございます。
するといまの東灘、住吉の豪商の吉田道可(どうか)が熊野詣での際にその噂を耳にし、彼の養子の喜平次が紀州須谷(すがい)の岩の上にある庵に上人を訪ね「道可がどうか!と懇願してまんねん」と頭を下げ、それに応えて1798年に住吉へ、吉田家のサポートを受けながら赤塚山で修行をいたします。そんなことから「上人山」ともよばれるようになった赤塚山は現在の住吉山手、家がひしめく住宅地になっていますが、ここから六甲を越えてすぐ有馬なのに残念ながら上人の来湯記録は見当たりません。
そしてその後は大ブレイク!1803年に京都の法然院で剃髪すると、関東信越などにも出て多くの庶民、特に女性を南無阿弥陀仏で救い、徳川の紀州家や一橋家、大名も篤信。信者たちの熱狂的な推しもあって「流行神」と崇められるようになりました。1818年に江戸の一行院で入寂しますが、その後もしばらく徳本ブームが続いたとか。
上人が来訪した地には独特の文字の名号塔が建てられ、来ていないところにも上人の碑ができて、それら合わせて全国に千基以上!有馬温泉の念仏寺にも上人ご遷化にあわせて石塔が建立されたそうでございます。
敬愛する法然ゆかりの箕面の勝尾寺で修行していた頃ですから1807年頃でしょうか、上人は腰を痛めてしまいました。なるほど、それで湿布を貼ったからトクホンか!というのは早合点。そちらのトクホンは武田信玄の主治医だった長田徳本に由来しているそうですよ。話を戻して…腰痛に悩む上人に喜平次が贈ったのは有馬温泉のお湯。上人がその湯に浸かるたびにあら不思議!金色に濁った湯が澄んでいき、そしてその残り湯の滴を患っている人々に舐めさせたらなんということでしょう!病気が治ったそうなんです。ホンマかよ?と思いますが、そういう逸話が生まれるくらい上人はカルト的な人気があったということでしょう。そして当時、神霊泉としてどの温泉のお湯よりもインパクトがあったからこそ、有馬の湯がこの伝承に登場するのでしょうね。













