2月号
連載 神戸秘話 ② 神戸一中サッカー部と河本春男
文・瀬戸本 淳 (建築家)
命がけの奮闘。全身全霊の緊張。その間に感じる、ゲームの妙味─。サッカーは世界で最も愛されているスポーツだが、世界へとつながる港町、神戸は日本におけるサッカー発祥の地で、諸説あるが明治5年(1872)に居留地ではじめて試合がおこなわれた。その14年後に日本で公式にサッカーの試合が行われ、「KR&AC(神戸レガッタアンドアスレチッククラブ)がYC&AC(横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ)」を2対1で下している。
ゆえに、神戸では早くからサッカーが定着。なんと戦前の中学校(師範学校も含む)の公式全国タイトル18のうち11は兵庫県のチームだった。兵庫大会の決勝戦は事実上の日本一決定戦だったそうだ。中でも強豪だったのが御影師範(神戸大の前身)、神戸一中(現在の神戸高校)、神戸三中(現在の長田高校)で、甲陽や灘からも日本代表を輩出するなどレベルが高かった。
神戸一中のサッカー部は神戸尋常中学校時代の明治29年(1896)に「蹴鞠会」として結成されたが、これは全国的にみても早く、イタリアのプロリーグ、セリエAよりも歴史が古い。
そんな神戸一中サッカー部をさらなる高みに導いた教師が河本春男だ。河本は明治43年(1910)愛知県生まれ、13歳の頃に刈谷中でサッカーをはじめ、3年生の時には神戸一中を破るなどして全国大会で優勝している。その後東京高等師範学校(現在の筑波大)に進学しプレーしていたが、卒業直後に神戸一中の池田多助校長が直々に要請し、昭和7年(1932)に神戸一中に着任、サッカー部部長になった。
着任翌日の練習初日は雨。グラウンドに出たものの部員は誰一人としていなかったという。そんな状態から生徒とともに走ってボールを蹴りながらチームを心身ともに鍛え上げ、着任1年目にして全国大会で3度目の優勝に導くなど、7年の在任期間中に全国優勝4回、準優勝1回と輝かしい成績を収め、多くの日本代表選手を育てた。
河本はその後岡山女子師範学校へ転任、さらに従軍して大陸へ赴き、除隊後は岐阜県体育主事を経て戦後実業家へ転身。アルプスバター神戸直売所を開設、岐阜の牧場から神戸の菓子メーカーに販売し事業は順調だったが、昭和37年(1962)にユーハイムの創業者夫人、エリーゼ・ユーハイムから懇願され、同社の代表取締役専務に就任する。当時のユーハイムは経営状態が芳しくなく資金繰りも難しかったが、たまたま銀行の廊下で神戸一中のサッカー部員出身の銀行役員から声を掛けられ、それがきっかけで融資を受けられるようになり経営が再建できたという。その後、エリーゼが亡くなると社長として手腕を発揮、平成12年(2000)に退社し、その4年後に94歳で没した。
サッカーは出足が大事。河本は「常に一歩先んじ、一刻早く」をモットーにしていたが、それは神戸高校の精神として今もなお根付いている。
次号では神戸一中サッカー部出身の著名人を紹介しよう。
河本 春男(かわもと はるお)
株式会社ユーハイム 代表取締役会長
昭和7年に東京高等師範学校卒業後、兵庫県立第一神戸中学校に奉職。昭和14年、岡山県女子師範学校へ転任し、昭和18年、岐阜県体育主事に補せられる。昭和22年、以願免官し、商人となる。昭和33年、有限会社アルプスバター神戸直売所を設立し、代表取締役となる。昭和37年、株式会社ユーハイム代表取締役(専務取締役)に就任。昭和46年、エリーゼ・ユーハイム社長死去により、社長となる。同社代表取締役会長を経て、平成12年、株式会社ユーハイム代表取締役会長を退任し、相談役となる
写真提供/株式会社ユーハイム
瀬戸本 淳(せともと じゅん)
株式会社瀬戸本淳建築研究室 代表取締役
1947年神戸生まれ。一級建築士・APEC アーキテクト。神戸大学工学部建築学科卒業後、1977年瀬戸本淳建築研究室を開設。以来住まいを中心に、世良美術館・月光園鴻朧館など、様々な建築を手がけている。神戸市建築文化賞、兵庫県さわやか街づくり賞、神戸市文化活動功労賞、兵庫県まちづくり功労表彰、姫路市都市景観賞、西宮市都市景観賞などを受賞