7月号

神戸で始まって 神戸で終る 73 〝答え合わせ〟って、一体なんですか?
ああ、そうですか?
今の世の中、WEBでは、小説の読者や映画の鑑賞者が、小説や映画の内容を詳しく調べあげて、それっぽい筋道を立てた「考察」が流行しているのですか?
僕は『考察する若者たち』(三宅香帆著)の存在は知りませんでしたが、自分が感じたことが間違っていないかとか、答え合わせをしたいとか、あらゆるところで考察が求められている。そんな現象が起こっているのですか?
自分と他人の間に溝があることへの不安、他人と同じ考えを共有したい、自分独自の考え方、生き方が不安ということでしょうか。人は人、俺は俺では生きていけない。そんな時代なんですかね。
俺なんかは、人と同じであることがかえって不安だった、そんな若い時代をふと思い出しました。20代の若い頃、僕はグラフィックデザインを職業としていました。デザインという職業は、一口に言ってしまえば個の探求です。他者と差別化することで自分が存在する。誰かに似ることへの恐れから、他者と差別化することが創造の探求でもありました。そんな習慣が板についてしまっていたので、他者と区別される孤独が、大げさに言うと生きがいであったように思います。
少々話がズレてしまったかと思うのですが、「答え合わせ」って一体なんですか?答えなどはあるのですか?僕はこの世に答えなどないと思っています。
1たす1は2ですか?3ではダメでしょうか?
芸術は、1たす1を10とか100にしたっていいのです。芸術に答えなどありません。
僕のしていることは、物事の本質や状態を明らかにするために調べたり、よく考えたりする、そんな考察など必要ありません。僕は全く興味がありません。
禅宗の修行に「公案」というのがあります。もともと答えのないものに答えを出させようとする修行です。今、若い人の間で話題になっている考察は、どのようなものかは知りませんが、僕はふと、公案を想像してしまいました。もともと答えなど存在しないものに、問題を与える禅の世界観と、どこか似ているようですね。禅は、無我の境地に入って、物事の背後にある姿を求めて悟りを目指す修行です。
現代の若者が関心をもつ考察が、悟りへの道とは思いませんが、禅を知らないで禅の公案のようなことをしているのですかね。もしかしたら、こうした発想というか行為には、AIの影響があるのですかね。僕にはよくわかりません。
編集の田中さんから与えられたテーマに、僕が受けたピカソの影響について今どう思うか…という質問がありました。
若者の「考察」ではないが、では、ピカソについて考察してみましょう(笑)。
ピカソは、次々と主題と様式を変えてきました。ピカソの集中力はすごいと思います。今、目の前にある問題に対する短時間の集中力は、一種の破壊行為に似ていると思います。通常の時間を超越しています。だからピカソは、自分がしていることに、すぐに飽きてしまうようです。飽きてしまうために、新しい造形を求めます。この繰り返しが、多様な様式を生んだのだと思います。
そのためには、彼は、頭の中から考えを排除して、全身を脳に変えてしまう。その結果が、あのピカソなのです。
また、ピカソはパクリの名人です。ベラスケスやマネを悪意あるオマージュで、片端から剽窃します。オリジナルへの否定です。オリジナルは存在しない、オリジナルの否定が、見たことのない絵画を創造します。オリジナルを放棄すると同時に、考えも放棄します。答えのない答えを出そうとしています。
その辺りが、禅に近いかもしれません。

芸術の浄化 1990年 徳島県立近代美術館蔵(ピカソの図像を引用した作品)

交感神経と副交感神経の結婚 1991年 堀美術館蔵(ピカソの図像を引用した作品)

Piccaso misses his wives 2014年 国立国際美術館蔵(ピカソの図像を引用した作品)

撮影:横浪 修
美術家 横尾 忠則
1936年兵庫県生まれ。ニューヨーク近代美術館、パリのカルティエ財団現代美術館など世界各国で個展を開催。旭日小綬章、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞、東京都名誉都民顕彰、日本芸術院会員。著書に小説『ぶるうらんど』(泉鏡花文学賞)、『言葉を離れる』(講談社エッセイ賞)、小説『原郷の森』ほか多数。2023年文化功労者に選ばれる。
横尾忠則現代美術館では『連画の河』展を開催中です。













